【志ん生の時代】(下)落語の歴史に志ん生がいたことの意味の大きさ。それは落語界の未来に受け継がれていく。
朝日カルチャーセンター新宿の配信で「志ん生の時代」を受講しました。
(きのうの続き)
誤解を恐れずに言えば、志ん生は上手くなかった。「圓生百席」を遺した圓生と比べると、「ポンチ絵派」と言える。人気があった。オリジナルギャグも多かった。それが、昭和の名人と呼ばれ、評論家も評価が高く、東横落語会のレギュラーにもなったのは、最も人気のある「名人」だったから。大衆が寄席で愛した庶民派スターだった。
その対極にいるのが、文楽だ。政治家が好み、お座敷は一席、当時のお金で100万円だったという。志ん生も文楽も、「古典落語」を定着させるために、古典のネタを沢山勉強し、超一流になった。そして、古典落語は古臭いものではない、ということを世間に知らしめた。廓噺も現代に通じるものにした。それは「山のアナアナ」や「どーも、すいません」とは大いに違う仕事をしている。
昭和30~40年代にかけて、「(古典)落語っていいね!」と強く印象づけた。素晴らしい芸能だと、文化人が認めるものにした。圓生は天皇陛下の前で落語を演った。だから、今も落語はある。そして、100年後もあるだろう。その礎を作った。それが志ん生の時代のひとたちなのだ。
戦前の古臭いと言われた落語を、戦後の寄席で爪はじきにされかねなかった落語を、これこそがホンモノだ!と持ち上げた。第1次落語研究会と同じように、ホール落語という舞台で古典落語は文化としてモダンなものだと認めさせた功績は大きい。その中核に志ん生はいた。
「志ん生は売れないときの方がよかった」という人がいる。「名人は円喬」と憧れていた頃の志ん生。確かに、円喬は作品派の天才肌で、鋭い芸の持ち主だった。尖っていた。志ん生は講釈もやった。作品を語った。芸を愛した人だ。三語楼の弟子として、師匠を目指した。ハイカラな新作派の金語楼や権太楼が影響を受けた師匠だ。だから、時代を超越したギャグをふんだんに入れる古典を作り上げた。「火焔太鼓」は志ん生オリジナルのギャグやフレーズを除いたら、何も残らない。ギャグセンスと名人芸のミックス。それがピタリピタリとはまった。落語というのは面白い人が演ると面白いんだ、ということを証明した。
志ん生がいた、ということは落語の歴史において極めて大きなこと。なぜ、受けたのか。談志は「内容があるからだ」と言った。小三治が「あくび指南」を演ったら、先代小さんに「あんなに笑わせてはダメだ。あれじゃあ、志ん生さんだ」と言ったという。志ん朝も談志も、そこ(志ん生)からアップデートしている。いまのお客さんを喜ばせる落語を演ることが大事だと考えた。だから、独演会のマクラが面白い。
「昭和の名人」と「古典落語」がイコールになってしまったのが、昭和末期から平成の初め。そのまま演ることが伝統芸能だ、伝承芸能だと若手が思ってしまった。大ベテランの師匠たちが「志ん生、圓生、小さんをそのまま演らなくては、変えちゃいけない」と思いこんでいた。一方で圓楽、談志、志ん朝、小三治、さらに権太楼やさん喬は自分の落語をこしらえていた。それを認めない人が多かった。小言を言われた。心の狭い落語ファンによって寄席が錆びれた。「昭和の名人」の弊害だ。それが、また自分の落語を作ればいいという空気になり、それが落語ブームにつながった。
いま、二ツ目ブームなどとも言われ、節目を迎えている落語界。古典落語を古い形で進めていくこともできるが、古典落語という価値観を認めた上で、きちんとできる新作派が出てきた。新作は邪道と決めつけ、古典を持ち上げる必要がなくなった。邪道じゃない!と、豊かな落語界が形成されつつある。
志ん生の時代は古典落語という言葉が広まった時代。そこに名人と呼ばれることが内包されている。とらえどころのなさ。志ん生というのは何だったか。これから考えていかなくちゃならない。落語って、懐が深い。幅が広い。好みも人それぞれ。名人と言っても、どれ一人として同じタイプがいないのがミソ。
江戸の風が吹いているポンチ絵派こそ寄席芸であり、その代表が志ん生。彦いちや白鳥がいま、寄席の中でその役割を果たしているともいえる。志ん生の「火焔太鼓」をそのまま演じている人もまだいる。だけれども、志らくも、白酒も、白鳥も新しい「火焔太鼓」をこしらえている。落語はそういう可能性を持っている。
名人芸に憧れ、ポンチ絵派になり、大成功した志ん生。「昭和の名人」の時代イコール、志ん生の時代といえる。広瀬さんの講義を聞いて、誰もが心に「志ん生」を持って高座に臨むことこそが、さらなる落語界の発展につながるのではないか、と感じた。