【志ん生の時代】(上)昭和の名人たちが「古典落語」という言葉を普及させ、その素晴らしさを蘇らせてくれた。

朝日カルチャーセンター新宿の配信で「志ん生の時代」を受講しました。

今年3月末に落語評論家の広瀬和生さんによる「志ん朝の時代」を受講し、昭和の名人から紐解いて、現在の落語を考えることに非常に有意義な内容だったので、このブログで2回に分けて記した。その後、コロナ禍は予想以上の悪化し、演芸界にも多大な影響を及ぼしているが、また改めて昭和、平成、そして令和の落語を考えるのに、広瀬さんの見識は非常に僕たち演芸ファンにとって勉強になると考え、「志ん生の時代」を受講することにした。コロナ禍を鑑みた朝日カルチャーの配慮で、配信でも受講できたので、そちらを選んだ。その講義の内容を僕のメモを基に2回に分けて記録として残しておきたい。

古今亭志ん生の全盛期は昭和27年から36年と言われている。もちろん、それ以前から民放ラジオなどで活躍しており、戦中も円生と満州に行くなどしているが、昭和28年にはじまった三越落語会、ホール落語のはしりとも言えるこの会から「古典落語」という言葉が生まれ、広まり、志ん生はその中心として高度成長とともに歩んできたという意味で全盛期を定義している。昭和36年というのは、巨人軍の優勝祝賀パーティーに呼ばれて落語を演っている最中に倒れ、すぐに復帰はしたが、それまでの語り口は戻らず、引退のような形になってしまったことから、そこまでを全盛期としている。

時代が江戸から明治となり、落語は江戸や上方の郷土芸能から日本の大衆芸能に変わっていった。明治維新で薩長という江戸っ子以外の人間が政治をすることになり、江戸の文化も大衆化する。古典落語とは何か。江戸が舞台、さらに明治、大正まで広げ、人々が長屋で生活し、へっついで飯を炊き、花魁と遊んでいた時代の噺だ。貨幣制度でも、両があり、円があり、銭があり、それらがごちゃ混ぜになっている。そこで戸惑ってはいけなくて、その時代、時代で演るやすい貨幣を使えばいい。リニューアル、アップデートは自由。子別れで小遣いに50銭やるか、50円やるかは演者次第。真田小僧の「1銭はここまで」も、時そばの「16文」も雰囲気が伝わればいい。「よかちょろ」で45円出すのに、「山﨑屋」で両や分が出てくる。大衆芸能は難しいことは言わない。

戦前までは50両と言えば、共通の価値観でなんとなくわかる。それは、50年前の昭和45年の大阪万博の頃のことが、今でも何となくわかるのと同じだ。1960年代からのテクノロジーの進歩の速さはとてつもないが、でも、携帯やパソコンがない時代の文化はわかる。それは大正時代の人が江戸時代を振り返ることが難しくないのと同じだ。志ん生、円生、文楽は明治生まれ、小さんは大正生まれだが、彼らを「昭和の名人」と一括りにできるのは、「東京をまだ江戸と言っていた時代」を理解できたからだ。それが、戦後から経済成長を経て、だいぶ変わった。吉原がファンタジーになってしまった。

落語という芸能の本質は、面白い噺なのか?いや、人情噺や怪談噺を含めた話芸なのか?そのあたりがゴッチャになっている。明治維新で、江戸以来の作品を語る人が寄席の居場所を失った。寄席の四天王は、円遊、談志、萬橘、円太郎。珍芸で人気者になった。大衆芸能は面白ければいい。粋とか、江戸前とか、名人とか、はいらない。侍言葉が否定され、芸に技術を求めていなかった。それを危惧し、「本当の落語」を考えようとしたのが、作品派の噺家たちで、円左、円右、円喬、小さん。彼らが文化人の助けを借りて、落語研究会を立ち上げた。現在、TBSがやっている落語研究会は第5次で、第4次までは同人組織だった。

競い合う。落語というのは本来、こういうもの。これぞ、落語!というものを目指した。夏目漱石が円遊を否定し、小さんを「本当の芸」と評価した。第1次落語研究会に円遊が招かれたが、コテンパンに打ちのめされ、およびでなくなった。人情噺、大ネタ、滑稽噺でも大きなネタが尊重され、大正・昭和初期の名人へと引き継がれた。寄席で受ける、ただ面白い芸人は「ポンチ絵派」と呼び、「作品派」と区別された。寄席は目先の笑いを求めてくる。この人、知っている!それは今の時代でもそうだけれども。

戦後、昭和20年代。作品派は受けず、新作落語全盛期だった。歌笑、痴楽…この流れは三平に続く。面白いことを言う、漫談に近い。作品をやらない。歌奴(三代目円歌)と三平は二ツ目で寄席のトリをとった。客を呼ぶ落語が本当の落語なのか?疑問を呈したのが、安藤鶴夫。昭和30年代に「古典落語」という言葉が普及するが、寄席と対極にあるホール落語は、「古典を鑑賞する」というコンセプトで広まった。文学性。話芸。日本独特のノスタルジーに満ちた噺。落語を聴くには古典落語、というのが次第に主流になった。

目先の笑いではなく、日本人の誰もに流れているノスタルジー。それが古典落語であり、時代劇やクラシック音楽と同じ「文化」として認められた。古典落語は素晴らしい、ということの見本を具体的にホール落語で示した。そのレギュラーメンバーが「昭和の名人」と呼ばれた。文楽、志ん生、圓生、小さん。東横落語会の固定出演者は、これに三木助を加えた。安藤鶴夫の影響が大きい。ほかに名前が挙げられるのは、柳好、金馬、正蔵、可楽、柳橋、柳枝。この人たちについては、評価がまちまちだ。正蔵は作品派の巨匠であることは確かだ。円朝作品を今に伝えるという仕事をした。だが、談志は「だって下手だもの」と言った。金馬は圓生も文楽も認めていた。ラジオから流れる高座で、子供のファンも多かった。だが、評論家は認めなかった。なぜなのか?癖はあるが、上手い。志ん生だって癖はあった。惜しむらくは、タレント枠に入ってしまったことか。現在、テレビで活躍する志らくに同じようなことが言えまいか。

(あすへ続く)