柳家小三治「青菜」 肚の中の噺をゆっくりと丁寧に取り出して紡ぐ。80歳、コロナ禍の中で人間国宝の素晴らしい高座に感激した。

めぐろパーシモンホールで「柳家小三治 秋の会」を観ました。(2020・10・21)

小三治師匠はよく「わたしの落語には台本がない」と言う。つまりは噺を肚に入れ、そこから湧き出す言葉を紡ぐ作業をするのが高座というものだ、ということなのだろう。頭で覚えるのではなく、肚におさめろ、といわれるが、そう簡単に出来ることではない。そこが人間国宝の人間国宝たる所以なのだと僕は思っている。

それが、このコロナ禍で噺を肚から出す、つまりはお客様の前で高座を務めることが止められてしまった。ようやくこのところの規制緩和で数席を務めることができたようだが、この日の高座は肚の中の噺を以前よりもゆっくりと丁寧に取り出す作業をしているように感じた。80歳、もうすぐ81歳になる小三治師匠だから、その取り出す作業は若い噺家よりも時間がかかる。でも、逆にその作業を目の前で観て聴くことができたのが、非常に嬉しかった。至福のときだった。

マクラで短く、このコロナ禍についての思いを語った。お客様の前でお話をするのを生業にしている。喋るというのは、口から出ると取り消せないから、本を書いたりする作業とは違う。「きょうはどうなるだろう」と思い、高座に上がる。半年以上も高座に上がらないと、着物の着方までわからなくなってしまう。羽織の上に着物を羽織るようなことはしないけれども、と。

当たり前のことが当たり前じゃなくなる。まさか、こんな時がくるとは。鼻唄を歌いながら、チンタラと歩くこともできない。散歩するのも面倒になった。お客様と遊ぶ…こんな言い方はいけないのかもしれませんが、これ(高座)がないとダメですな。ようやく少しずつ解禁になって、全国何か所か回ったけれど、身体が鈍っている。どっちの足から歩いていいのか、わからなくなる、と。きょうも初心者のつもりで演りますと、「青菜」に入った。

台詞を飛ばしたり、繰り返したり、順番が違ったりしたけれど、この噺のテーマである、「植木屋の品のあるお屋敷暮らしへの憧れ」がきちんと肚にあって、それを軸に言葉を取り出し、噺を展開しているから、この噺の可笑しさは損なわない。いや、むしろ、そのテーマが強調されて、より可笑しさが強調されたのではないか、とすら思った。

旦那に柳影を勧められた植木屋の「あっしは職人、仕事中ですから酒を飲むなんてとんでもない。江戸っ子ですから!きっぱりとお断りします」と言いながら、「でもね、腹の虫が『いただいておきなさい』と言うんです。あとで揉め事が起こすのも嫌ですから、いただかせていただきます」という台詞が実に味のある可笑しみを醸し出していた。言葉を自由に操るというのは、ペラペラ喋ることではなく、言葉を引き出しから取り出して紡いでいくことなのだと思う。

「その淡泊をもう一切れ」という台詞、氷のブッカキを口に放り込んだときの表情、そして「この氷はよく冷えている」と言う間。さらに、菜はお好きか?と訊かれたときの「デースキ」というフレーズに、旦那がすぐさま「大好きね」と間髪を入れず続けるところも、小三治師匠の味わい深さであろう。

柳影を飲む、ガラスのコップで飲む、鯉の洗いを食べる、この一連の流れが行きつ戻りつしていても、違和感を感じる以上に師匠が伝えようとしている噺の持つ可笑しさが勝っている。つぎの言葉や段取りが出なくても、「お屋敷、大好き。何か好き。なんでだろう」と言ったアドリブが入って、それが独特の味わいになっている。

特に自分の女房とお屋敷の奥様を何度も比較して、「お屋敷っていいなぁ。真似してみたいぁ」と繰り返し強調していたのが印象的だった。「食べちゃった!ないよ!うちのかかあじゃないんだから。その菜を食ろう判官か。お屋敷だなぁ。1から10まで違う」と言ってから、もう一度氷の話題に戻り、「人知れず、そっと氷が敷いてある。もう一度、いいですかね?」と言って、氷を頬張り、「よく冷えているよなぁ」。リフレインは企んだわけじゃないが、それでいいのだと思う。

旦那がもう一度、「植木屋さん、菜のお浸しはお好きか」と言ったときには、一瞬ドキッとしたけど、なんとそこで咄嗟に「今度来た時は、山盛りでドッサリお出ししよう」と切り抜けたのは見事だった。そして、隠し言葉に戻り、「奥様はそういうやりとりをして、恥を表に出さないようにしているんですね」と言い、「そこですよ!うちのかかあは大変。一昨日買った三銭のつまみ菜がいつまであると思っているんだよ!と知らんぷりですよ」、さらに「鰯がさめちゃうよ!長屋では皆食っている。恥ずかしくもない。だけど、ばらまいちゃう。知られなくていいようなことをわざと言う」と愚痴って、「それに比べて奥様は!」。

隠し言葉を一遍やってみたいと旦那の前で言い、徳利の酒が切れたのを「旦那、柳影が義経になりました・・・負けん気でやりたくなった」というのが可愛い。凄い植木屋が正直で素直。「いい心持ちになったから、まだ仕事は残っているんですが、もう帰ります」。その上、「水を撒くのはね、心が研ぎ澄まされていないとうまくいかない・・・自慢じゃないですけど」。究極の台詞が「大事にしよう、お屋敷バンザーイ!」。

噺の最終盤、女房が押し入れから出てきて「鞍馬から・・・」と隠し言葉を辰公に披露する前の、辰公の「大丈夫か?お稲荷さまの鳥居に小便でもしたのか?目がつり上がっているぞ」という台詞に夫婦のお屋敷ごっこの可笑しさが集約されていた。

サゲを言って頭を下げた小三治師匠。幕を閉じずに、話し始めた。「私の落語はうろ覚えなんです。それをお客様の前で演ることで思い出していく。前にお客さんがいなくて、稽古なんかできません。ちゃんと思いだすのは無理です!」。

この噺は、ほとんどのお客様知っているでしょうから、「随分と違うな」と思ったでしょう。でもね、精一杯なんです。きょうは昼夜の公演で、昼の部にお越しになった方が夜にも来る人もいると聞きましたが、「青菜」を二度聴いていただくことになりました。「こんなに違うんだ!」と自分でも思います。どっちも良くない!今まで演ったことのない「青菜」でした。コロナだからと言って、特別な勉強はしません。そういう努力をするのはよそうと思いました。

こう言って、最後はコロナ患者やその家族、そして医療関係者に拍手を送りたいので、皆さん、協力してください!と呼びかけ、場内割れんばかりの拍手が響いた。80歳という年齢とコロナ禍の二つと闘い、「噺家、柳家小三治」の精一杯の高座を聴いて、思わず泣きそうになった。