【志ん朝七夜】③ 志ん朝は言った。「芸は消えるから、いいン」

93年の僕の落語ノートにこんなことが書いてある。12月2日、池袋演芸場12月上席夜の部。

本当はきょうみたいにフラッと寄席に来て、落語を聴くというのが本来の落語の楽しみ方に違いない。確かに、きょうはトリが志ん朝師匠ということで、「行ってみるかな」ときのう思い立った。で、きょう行けるというのが嬉しい。だいたい、2か月も3カ月も前に電話で予約したり、窓口に行ったりして、チケットを購入して、イヨイヨ当日を迎えるというようなホール落語の楽しみ方は不自然のような気がする。志ん朝師匠がよくマクラで言うように「落語というのは、肩の力を抜いて、ぼんやりしながら聞くもんです。よく、こうね、古典芸能を鑑賞しようというような間違った了見で、高座を睨みつけるような方がいますけど、そんなもんじゃない。屁みたいなもんです。道端でする屁。あれ、したのかな?しなかったのかな?・・・という、わからないような」というのがあるんですけど。池袋はそんな気楽な楽しみ方ができる、いい小屋である。

文吾「雑俳」/さん生「蔵前駕籠」/紋之助/八朝「真田小僧」/才賀「長短」/こん平 漫談/正楽/しん平 漫談/右朝「尿瓶」/志ん五「幇間腹」/小円歌/志ん朝「妾馬」

同様に9月19日、池袋演芸場のこけら落とし公演のときのことが書かれている。

志ん朝が聴きたくて並んだ。前売りはすでに売り切れだったので、諦めていたのだけれど、朝起きた途端に無性に志ん朝が聴きたくなった。12時半開演なのに11時当日券発売開始。10時半に行ったら、すでに6人くらい並んでいた。これから先、何年志ん朝の落語を聴けるのだろうか。まだ10年は大丈夫だ、というよりも、そんなことを考えること自体が不謹慎だし、今の快調さから言ったら、考えられないことだけれども、志ん朝師匠の落語を聴いて満足するたびに、そんな余計な心配をしてしまう。あの江戸前のテンポのよい話芸、深い人間描写、噺に引き込む力は他の追随を許さないのだけれど、そんな志ん朝と同時代を生きる喜びを噛みしめながら、その一方で妙な不安になる気持ちは何だろう?ちょっと違うかもしれないが、全盛期のあの「負けない北の湖」の憎らしいほどの勝ちっぷりを見ながら、きょうは負けるんではないか…とハラハラしてしまう気分を思い出した。小三治の芸は年輪とともに聴けるが、志ん朝が歳を重ねて、テンポが落ちて、噺に淀みが出てきてきたら…という話題を誰かがしていたが、考えたくないことを考えてしまうのもファンだからこそか。兎に角、同時代を生きる喜びをできるだけ沢山味わおう!

志ん駒 漫談/志ん上「紙入れ」/雲助「身投げ屋」/静花/志ん朝「干物箱」

95年くらいだったろうか、僕が「ビジネスライン」という経済ニュース番組の制作をするセクションにいたとき、番組デスクには「レコード業界の取材」ということにし、「今後の落語界についてお話ししたい」と、生意気にも僕はあこがれの京須偕充さん(当時はソニークラシカルという名前の所属だった)にお目にかかり、一時間ほどお話しする時間をいただいたことがある。そのときに、京須さんがおっしゃっていたのは、「小三治さんはあのまま歳を重ねた高座が想像できる。だが、志ん朝さんはあのリズムとメロディは年を重ねたときにシフトチェンジが必要でしょうね」。

三百人劇場の独演会を実現させ、録音を嫌がる志ん朝さんへの説得を粘り強くして快諾を得て、その後も「志ん朝七夜」の成功に導いた名プロデューサーの京須さんの見解だから、かなり説得力がある。その後、99年に朝日名人会を立ち上げ、2月の第1回「火焔太鼓」、6月の第2回「お見立て」を録音しCDになっているが、やはり「七夜」の頃とは違う志ん朝落語になっている。その違いは聴けばわかるし、どちらが良いとか、悪いとかの問題ではない。だが、01年に残念ながら63歳で早逝してしまったので、もっともっと60代の志ん朝師匠が聴きたかった(涙)。

で、京須偕充さんのすごさにつながるのだが、自分の高座の音を残すことを、志ん朝師匠が嫌がった理由。それは「まだ残す芸じゃない」、もっと言うと「芸は消えるから、いいン」。それをいかに説得したのか。そこに志ん朝さんの美学が見えると思う。89年に出版された京須偕充著「みんな芸の虫」(青蛙房)より抜粋。

「そうですか…」。志ん朝さんは重そうに口を開いた。こんな問答などせずに早く帰りたいと言うように、車へむかって三、四歩前へ進んだ。「レコードはねえ、やりたくないんです。まだ、そんな芸じゃない」。また二、三歩前へ出る。志ん朝さんのことばはそれに尽きているように思われた。理由も何もない、実感として、本音としてそう思っている。だから、ことばは端的になる。高座では話術の快調なこと群を抜いているが、素顔の志ん朝さんは雄弁家ではない。むしろ何時間でも黙っている寡黙の士である。概して、オシャベリに大器は乏しいようである。

「まだ早い、と考えていらっしゃるんですか」「ン…、まだ、とか何とか言うよりもねえ、何と言うのかなァ…」。志ん朝さんは並木の下まで来た。車のドアに手の届くところだ。そこまで来て志ん朝さんは思い切ったように言った。「あとに残るでしょう、レコードは。それがいやなんです」。うまい理屈を見つけたと思ったか、口調は俄かに勢いを帯びた。「よくないよ、残るというのはねえ。芸は消えるからいいんだ。いいな、と思っても、それは二度と聴かれない。そこがいいんです。圓生師匠のような方が後世に残すというのはまた別の意味があるけど、僕らのは、どんどん消えちまったほうがいい」。言い終わると志ん朝さんは素早く愛車に乗り込んだ。以上、抜粋。

その後も、マネージャーの前島さんを通しての、京須さんの粘り強い説得は続いた。何よりも、落語ファン、お客さんがレコードを待望しているという、志ん朝師匠も十分わかっている、動かし難い明白な事実には説得力があった。だって、志ん朝師匠の高座を聴きたくても多くの人が切符を取れずに諦めているという現状は、京須さんの最大の武器ではなかったか。そして、前島さんから連絡が京須さんのところに来る。以下、抜粋。

「三百人劇場の会のほうは、志ん朝さんも承知しました。ただ独演会という名称はあまりにおこがましいから嫌だと言うんです。あくまでも勉強会というあり方にしたい、不出来なものをお聴かせするかも知れないから、と言うんです。でも、志ん朝さんほどのスターになって勉強会と名乗るのもまた、いやらしいですよね。そこで名称は単純に<志ん朝の会>ということにしたいと思うんです」。

「不出来なものをお聴かせするかも、というのは、レコードに対する牽制球でしょうか」「そう。レコードはまだ嫌がっているんです。これはもうこの段階でとやこう言ってもどうにもならないと思いますよ。で、どうですか、録音はとるけれど、レコード化は当面しない、思いがけずいいものがとれて、本人が承知すればレコードにするけれど、そうでなければ当分、もしかしたら半永久的に―、いや脅迫するつもりはありませんが、レコード化はない、というのは―。とんでもない無理なことを言ってごめんなさい。でも、そう決断して下さると助かります」。

「公式論としては出来ない相談ですね。発売許可の見通しが低いものに制作費をつぎこむなんてもってのほか、ということです」「そうでしょうね。企業として当然です。こちらの言い分が非常識なんです。それはよくわきまえています」「ただしそれはあくまで公式論です。私は志ん朝さんの芸を分かっているつもりです。芸が分からなければ公式論を楯にとるところですが、志ん朝さんの芸を評価すればこその賭けをしたいと思います」「じゃ、録音とりますか」「とります。志ん朝さんが承知した上でやったとしても、芸はナマモノですから全部が全部発売出来るなんてことはあり得ません。賭けといったって、そんな深刻なものじゃないんです」。

昭和51年9月27日、三百人劇場で第一回志ん朝の会が行なわれた。三年間の歳月を経て録音テープは廻り、芸は収録された。だが、それが世に出る保証はまだなかったのである。以上、抜粋。

京須さんはこれまでに「圓生百席」などの実績があったことが多分にあるだろうが、レコード会社の30代のサラリーマンが組織から信頼を得ていること、賭けに近いものを見切り発車させる上層部の器量に感嘆する。そういう信頼関係から良い芸術や文化が生まれるのだと、今、改めて思う。以下、抜粋。

「三百人劇場の会も秋には三年目になります。私のほうとしては、かなりいい録音が出来たと思っているのですが、いかがでしょう、そろそろ」。志ん朝さんは軽くうなずいて聞いている。至って平静で屈託のない顔つきだ。まるで来意を予期しているように見える。どうやら、前島さんがすっかり下話をしてあるらしい。「うん…」。一瞬をいとおしむように、志ん朝さんは僅かな間をおいた。「いいですよ」。静かな口ぶりであった。あまりにも短いひとことではあったが、それは長い旅路の果ての、確かなひとことであった。芝居とは違って、こんな時、やりとりはまことに単純なものである。「よろしいんですね、レコードにして」「いいですよ」。志ん朝さんはニコッと笑った。以上、抜粋。

もう何も書くことはないだろう。「芸は消えるからいいン」という志ん朝さんの気持ちを動かした京須さんの地道な尽力があり、いま、こうして様々な形で志ん朝師匠の映像や音源を我々落語ファンが楽しむことができる。すばらしい。感謝である。