【志ん朝七夜】④ 閑古鳥が鳴いていた名古屋の寄席で見せた、志ん朝の漢気

僕は放送局に入局した88年5月に名古屋に赴任した。当分は志ん朝どころか、演芸とも一時的にお別れをしなければいけないと思ったが、ところがどっこい、大須演芸場があった。僕は不勉強でその存在を知らずに赴任したのだが、早速に新人ディレクターが最初に作らされるラジオの録音構成において大須演芸場にお世話になることになる。と言っても、演芸番組を作るわけではない。僕が配属されたのは報道部。よって、今も夜10時から放送されている「NHKジャーナル」の地方局リポートだった。

入局して番組作りの「いろは」も、右も左もわからない。まずは、ネタを探すこと。そのとき、中日新聞に載っていたのが「大須演芸場、集客獲得大作戦」の記事。73年11月、足立秀夫さんは不動産会社を畳んで、その資金で大須演芸場の席亭となった。ところが、おそろしいほどに客が入らない。軍資金はあっという間に底をつき、85年には名古屋地方裁判所による財産差し押さえ命令が下る。多くの人から支援を受け、なんとか差し押さえは逃れた。だが、相変わらず、客は不入り。そこで、アマチュアのお笑いコンクールを開いて盛り上げ、さらに優秀な人材は寄席に出てもらおうという試みをスタートさせたのだった。

僕はデンスケと呼ばれる小型のオープンリールレコーダーを肩に背負って、コンクール様子はもちろん、出場者や足立席亭のインタビュー、ほかにも演芸場お抱えの芸人さんなどにもインタビューして10分ほどのリポートを作った。その新人時代のときから、足立席亭は可愛がってくれた。番組のネタに行き詰まると気分転換で、相変わらず不入りの演芸場に行く。木戸銭は要らないよ、と言う足立さんに押し付けるように木戸銭を渡し、漫談やマジックなどで気晴らしをした。あまり落語はかかっていなかったなあ。

その大須演芸場で志ん朝さんが三夜連続独演会をやる!と足立さんから聞いたのは、僕が社会人3年生のとき、90年だ。その前から足立さんは志ん朝さんと交流があった。「東横落語会 古今亭志ん朝」ブックレットより、「インタビュー 足立秀夫」からの抜粋。

あれは昭和53年頃だったか、志ん朝さんがフラッと、大須演芸場に入ってきたんだ。「朝さん、どうしたの?」「足立さん頼みがある。一寸、一席演らせてよ」「客席にろくに客おらへんよ。20人くらいしかおらん」「いいんだいいんだ、演らせてよ」と言うて、飛び入りで「小言幸兵衛」を演った。お客は大儲けや。(中略)

で、「小言幸兵衛」が終わったから「朝さんごめんな。これ少ないけどタクシー代の足しに」と言うたら、「あんた、そういうことするからダメなんだよ。おれが勝手に来たんだから。こんなこと言って失礼だけど、あたしで役に立つことがあったら、電話一本で飛んでくるからね」。志ん朝さんがそう言ってくれたの。大須の持ってる歴史と伝統みたいな匂いが、志ん朝さんみたいな、芸を演る人には吸引力があったのかな。(中略)

それから10年くらいして、一人のオバハンが演芸場に入ってきよった。「私は名古屋市の市民なんとかから参りました。市民芸術祭の一環で落語名人会をやりたいんですけど、大須演芸場さんでやってくれませんか」「落語名人会といっても、仕込みも客を呼ぶのも大変だから」とワシが言ったら、「これだけ(50万円)補助金出しますから」と指を出して言うんで、「そんなら、西なら米朝、東なら志ん朝、そんな程度でどう?」と言うたら、オバハンが「ほんとですか!こんなとこへ志ん朝さんが来てくれるんですか!」と本音吐きよった(笑)。

さんざん迷った末に、とうとう志ん朝さんに電話して「こういう訳で、何とかしてもらえんやろか」と言ったら、「いいよ、いいよ、行くよ」「10月の2~5日の中で毎日1回公演。1回2席ずつで、どうだろう」「行くよ行くよ」「真に申し訳ないが、出演料の方が…」「いいよいいよ。おれのことはいいんだけど、膝につれていく芸人さんには、普段より多めに色つけて。その分はおれの方から引いてもいいから」という返事やった。(中略)翌年の2回目からは、志ん朝さんの方から「今年もひとつよろしく」と言うてきてくれるようになって、それが恒例になり、名古屋市から毎年、50万円の補助金も出る。以上、抜粋。

志ん朝さんの漢気。カッコイイという表現しか浮かばない。自分の高座の音を収録することへの神経の細かさ、デリケートさ。そこと対極にある、気前の良さ。おおらかさ。どちらも兼ね備えている素晴らしい芸人だったことがよくわかる。それに負けず劣らず、足立席亭も名古屋で唯一の寄席の灯を絶やすことなく続けてきた漢気があった。その部分で、志ん朝さんは共感を覚えておいたのかもしれない。この「志ん朝三夜」は10年続いた。僕は92年夏に東京に異動したので、1年目と2年目しか体験していないが、足立さんの配慮でプラチナチケットを都合してもらい、堪能することができた。

平成2年

第一夜「井戸の茶碗」「お見立て」

第二夜「今戸の狐」「明烏」

第三夜「四段目」「品川心中」

平成3年

第一夜「三枚起請」「粗忽の使者」

第二夜「夢金」「試し酒」

第三夜「坊主の遊び」「芝浜」

いつもはツ離れしない寄席が、この三夜だけ二階席も入れて、立ち見も出る盛況だった。以下、抜粋。

大須の独演会の演目選びとかについて、朝さんが凄い苦しんどったらしい。うちへ来ると、いつも見る顔が同じあたりに座ってるんだから、そのプレッシャーはキツかったと思うよ。ワシは何でもないこったと思ってたし、談志さんみたいな性格な人は毎回同じ人の方がいいらしいけど、ほんと、芸のために身を切る思いをしとるというか。朝さんみたいな性格の人はプレッシャーになるんだね。

季節も毎年10月か11月と同じ頃やから、演れないネタもあるしね。「こないだ言ったマクラは使えないし」と言って、ホテルでも毎日、ネタをくっとったらしい。それでも「宗珉の滝」とか、「浜野矩随」とか、珍しい噺も演ってくれた。10年間続けてもらって、「精も根も尽き果てた」感じで、平成11年の秋で大須演芸場の独演会は終わった。以上、抜粋。

「東京ドームで落語を演るようになったら世は末だ。落語はそういう芸ではない」。そういう信念をもっていた席亭・足立秀夫。それに共鳴した古今亭志ん朝の心意気も素晴らしい。東京に異動になる92年、僕は「新日本探訪」という30分のヒューマンドキュメンタリー番組で、大須演芸場を舞台に修行を続ける若手芸人を主人公にした提案をしたが、当時のプロデューサーから却下され、実現はしなかった。足立さんへの恩返しはいまだ出来ていない。2015年に経営は足立さんの手を離れた。神田松之丞(現・伯山先生)が1月に「畔倉重四郎」の連続読みを大須でもやったと聞く。いまでも、大須演芸場は僕の心のふるさとだ。