【志ん朝七夜】② 僕が志ん朝を追いかけた15年
僕が初めてナマの志ん朝師匠の高座を聴いたのは、大学2年生のとき。落語研究会で、「酢豆腐」だった。記録を調べると、1985年は5回、志ん朝師匠が出演している。1月「首提灯」3月「居残り佐平次」6月「酢豆腐」8月「三枚起請」10月「浜野矩随」。86年4回、87年3回、88年5回、89年4回。90年代に入ると2回ほどになっているので、50代だった志ん朝師匠の円熟期だったと言える。僕は88年に就職して名古屋に赴任しているので、88年1月の「三方一両損」で一旦お別れしている。
4年間は名古屋勤務だったのが、幸いなことに、90年から大須演芸場で「志ん朝三夜」がスタートし、その1年目と2年目は皆勤しているが、そのことは別途書きたい。
92年に東京に異動すると、落語研究会のみならず、老舗の紀伊國屋寄席、にっかん飛切落語会、東京落語会、三越落語会と志ん朝を追いかけた。東京だけでなく、草加、松戸、相模原と、県境をまたいで独演会にも行った。
93年の僕(29歳)のノート「落語見聞録」をめくる。
3月11日 池袋落語会(東京芸術劇場小ホール)
古今亭志ん朝「明烏」虫垂炎で入院していた志ん朝さん、久々に聴きました。いいですねえ、いわゆる一つの「志ん朝の世界」があります。酔いしれるひととき。
3月26日 東西落語名人会(厚生年金ホール)
古今亭志ん朝「宿屋の富」いいねぇ、もう!子の千三百六十五番、当たらないもんだなぁ、少しの違いだ…、当たった!!この辺の微妙な心理描写が実にいい。草履を履いて布団をかぶっていたというサゲが気持ちよくオチるのも、そこまでの男の心理描写が巧み描かれているからこそ。名人志ん朝の本領発揮。
4月16日 東京落語会(イイノホール)
古今亭志ん朝「愛宕山」きょうも落語を聴いてよかったと思える一日。一八の鼻唄を歌いながら登って、だんだん息が切れていく様子の絶妙さ。旦那が小判を投げるのを見て、「こっちへ投げてくれ」と両手で輪を作って的にするところの一八のうろたえぶりは見事!「えらいぞ、一八。生涯贔屓にするぞ。それで小判は」「あ、忘れてきた」というサゲがストンとまるで音のしたかのように落ちる。
4月26日 古今亭志ん朝一門会(厚木市文化会館)
古今亭志ん朝「船徳」いや~良かったんだけど、後ろのガキが五月蠅くて。それならまだいいんだけど、それを抑えようとする母親がまた五月蠅くて。「ホラホラ、今、竿を使って船を漕いでいるところよ」とか、「お客さんの傘が石垣に挟まって取れなくなっちゃったんだって。おかしいでしょ」とか、いちいち説明が入るン。子どもがつまらないというのを、なんとか面白くさせようというのはわかるけど、一般常識形成期の子どもに、その常識の不合理性とか、世の中の裏とかとか、人間のオカシサやカナシミを描いたりする落語を理解させようとするのが無理なんです!「徳さん、大丈夫かーい」の台詞の横で、「ホラ、おじさんが心配して声をかけたのよ。徳さんは船頭になって日が浅いから」だってさ。
5月5日 落語協会特選会(国立演芸場)
古今亭志ん朝「酢豆腐」半可通の若旦那がキツイ匂いに耐えながら、食通ぶって口に入れるところの描写は絶品!古今亭志ん朝の世界、ここにあり!
6月16日 落語研究会(国立劇場)
古今亭志ん朝「文違い」熱演。堪能。今の噺家で廓を体現できるのは志ん師しかいない。構成の面白さで聴かせる噺だけに、4人のキャラクターをしっかりと演じ分けできないと成立しないが、志ん朝師匠はものの見事にこれをやってのける。「オラが色男てぇことがあらわれやしねぇか」で鳥肌。
8月9日 紀伊國屋寄席(紀伊國屋ホール)
古今亭志ん朝「水屋の富」細川連立内閣の閣僚名簿に日で中継があるからと出勤を命じられていたが、時間が早まって出勤に及ばずと言われ、「東京かわら版」をパラパラめくって紀伊國屋寄席が目に入る。小遊三「蛙茶番」と貞水「豊志賀」が夏ぽいと思い、当日券で行く。開場すると、「出演予定の小さんが都合により休演します。志ん朝が代演します」のアナウンス!小さんの病気を喜んではいけないが、まさに「棚ボタ」。800両盗まれるんじゃないかと疑り深くなる主人公の心理を上手に描いているのはさすが。
8月29日 国立名人会(国立演芸場)
古今亭志ん朝「そば清」清兵衛さんが蕎麦を20枚、30枚と制覇していくのと、周囲の反応を丹念に描写し、積み上げていく。最後に60枚に挑戦するところは絶品!スタート時のツルツルと、50何枚目かを無理やり押し込んでいくところ、落語は形なんだと思う。
9月17日 東京落語会(イイノホール)
古今亭志ん朝「井戸の茶碗」大須以来、3年ぶりに聴いた。何度も行ったり来たりするが、独特のテンポの良さで、間延びすることなく、引き込んでいく。屑屋が千代田と高木の訪問の切り替えを映像編集の手法のように「・・・というわけなんですよ」とする省略法が効果的。テンポの良さもただ早口でまくし立てるというのではない、姿、形の良さを保ちながら進めるところに志ん朝の真骨頂。
9月19日 池袋演芸場こけら落とし公演9日目
古今亭志ん朝「干物箱」落語は舌先の芸ではない、姿形の芸だと思い知る。二階で声色をする男のうろたえと、ガミガミ親父の演じ分けが素晴らしい。
10月14日 落語研究会(国立劇場)
古今亭志ん朝「柳田格之進」50分熱演。年輪を積んだ噺家から、マクラの部分で世の中の見方、考え方みたいなことが振られて、妙に納得することがある。「どんどん新しいものを取り入れていかなきゃいけない、時代は変わっているんだから、という方と、昔からこういうやり方と決まっているものは、そのやり方じゃなきゃダメだという頑なな方と2通りあるが、後者も大事だ」と志ん朝は言っていたが、同感だ。父の武士道に理解のある廓に身を売った娘を、「今だったら、冗談じゃないわよー、ってなもんですな。ここが信じられないところでしょう、今の人には」と言っていたが、こんな風に古典落語を残していけたらと思う。
10月21日 古今亭志ん朝「小言幸兵衛」うちの息子は堅物で、のクダリで「息子の背中に親父の腕が生えているわけじゃないだろ。知らぬは親ばかりなんだよ」というフレーズがよかった。
11月26日 マリオン寄席(有楽町朝日ホール)
古今亭志ん朝「二番煎じ」火の用心の声が寒さで震えるところ、猪の肉は嫌いだからと言いながらネギを食って、口の中で汁が飛び出すところ、とにかく、人物と情景の描写の上手さ、細かさ。登場人物が多いのに、これをきっちりと演じ分ける。猪の肉を食うところなんか、酔いしれる。
このほかに「素人義太夫」「ぞろぞろ」「妾馬」と聴いているが割愛。30年近く前の自分の感想文に赤面するばかりだが、志ん朝落語をナマで聴ける喜びに耽っている様子が伝わってきて、初々しいというか、こういう新鮮な気持ちでいつも高座を聴きたいものだと思った。で、その90年代は東京落語は実は停滞していた時期で、特に後半は志ん朝だけが突出していたということが、長井好弘さんの文章からわかる。「落語研究会 古今亭志ん朝全集下」ブックレットより「志ん朝を寄席で聞く贅沢」より抜粋。
この時期、志ん朝がまれに寄席でトリをとると、必ず「超」のつく満員状態になった。寄席の前の何列かは、いつも同じ顔が並んでいる。志ん朝が寄席を二軒掛け持ちする場合は、出番に合わせて寄席から寄席へと移動する。いわゆる「追っかけ」ファンだ。志ん朝没後、寄席で「追っかけ」が出没するのは小三治の高座だけになった。ともあれ、志ん朝は、高座の袖から客席を覗き見て、常連ファンの顔を見つけると、顔をしかめた。毎日来ている客がいると、同じネタを演じることができない。名人文楽は「アタシはいつも初めての客の前でやってると思うようにしてますよ」と言うが、志ん朝にはそれができない。ネタを変えるのがイヤというわけではないが、気持ちの負担になってしまうのが辛いのである。(中略)
志ん朝がトリのときは、前にだれが出演しても客席からなかなか笑いが起きない。客は志ん朝一人を待っているのであり、他の噺家なんてどうでもいいのではないか。早く終わらないかと考えているんだろうのだが、一人、また一人と終わり、だんだん志ん朝の出番が近づいてくると、知らず知らず肩に力が入る。客席の緊張感は、自然と高座にも伝わるから、高座の噺家と観客の間に、微妙なズレが生じてくる。それが、笑いの爆発を妨げているのかもしれない。(中略)
そして、待ちに待った志ん朝のトリである。「明烏!」なんて、ネタを注文する客は不思議と誰もいなかった。任せておけば、きっちりと噺をやってくれる。第一、志ん朝のネタなら、何を聞いても間違いがないんじゃないか。みんながそんな気持ちだった
ただ、時間が極端に短いときや、出番前に何か気に入らないことがあったときには、「男の勲章」(別名「ヤマダゴイチ」)という漫談をやった。固いパンが食べられなくなったり、「女と酒」より「毛と歯」が気になったりと、自らに忍び寄る「老い」の兆しを嘆くネタで、面白いには違いないが、これを「万年若旦那」の志ん朝が語ると、なにやら寂しい気持ちになるのだった。(中略)
本来ならば、自分が先頭に立って落語界を引っ張らなければならなかった21世紀を、たった9ヶ月間だけ生きて、ぷいとあっちの世界に旅立った志ん朝。その数年後には、時ならぬ落語ブームが訪れた。以上、抜粋。
そうだ。僕は00年8月に長野に転勤となったが、僕が最後に聴いた志ん朝の高座も「男の勲章」だった。きっちりとした高座は3月の落語研究会「愛宕山」が最後だったと記憶している。そして、翌年の01年10月に志ん朝は天国に召された。00年3月下席で真打昇進したたい平、喬太郎の両師匠が、04年に異動で東京に戻ったときには、しっかりと落語人気の支柱の一角を担っていた。