【志ん朝七夜】① 21世紀をちょっとだけ生きて、逝ってしまった

きょう、10月1日は古今亭志ん朝師匠の命日だ。

僕の母は健在で、先月誕生日を迎えて83歳になった。昭和12年9月8日、千住生まれの江戸っ子だ。志ん朝師匠が昭和13年3月8日生まれなので、同学年である。母は青春時代に「若い季節」や「サンデー志ん朝」を見て育った。24歳で松本出身の父と結婚し、27歳で僕を産んだ。父が落語好きだったこともあって、早朝に並んで買った東横落語会の切符を持って、よくナマの志ん朝師匠の高座を聴いたという。それも僕が生まれると育児に専念するため、行けなくなったしまったが。その後、また僕が成人し、就職すると、再び落語研究会に通って、志ん朝師匠の高座を観ていた。

もし、父が落語ファンでなかったら、母は志ん朝が落語家であることは知っていたが、どんなにすごい噺家かであるかは知ることができなかっただろう。だから、ブラウン管の「タレント」志ん朝しか知らずに終わってしまった同年代より母は幸せだと思う。

2001年10月1日、古今亭志ん朝、逝去。享年六十三。早すぎる死だった。朝日の夕刊には次のような記事はが書かれている。

格調高い端正な語り口で古典落語を得意とし、人気、実力ともにトップの落語家、古今亭志ん朝氏が1日午前10時50分、肝臓がんで死去した。(中略)57年に父である五代目古今亭志ん生に入門。朝太の名で初高座を踏み、62年に異例の早さで真打昇進、二代目古今亭志ん朝を襲名した。

江戸前の正統派。スピード感のある語り口、清潔で気品のある芸風で人気・実力とも当代のトップを走っていた。代表作に古典落語の「愛宕山」「三枚起請」「文七元結」、父の十八番だった演目を自己流に再構成した「火焔太鼓」などがある。

喜劇俳優三木のり平に師事し、俳優としても独特の味のある演技で活躍。60年代のはNHKのテレビドラマ「若い季節」などにも出演した。また、落語家による寄席の踊り「住吉踊りの会」を二十数年前から続けてきた。以上、抜粋。

また、読売新聞はこうだ。

(前略)もともと実力は前座時代から高く評価されていた。同世代の三遊亭円楽、立川談志、橘家円蔵とともに“寄席四天王”と呼ばれ、若い頃からテレビなどでも活躍した。

芸を磨くことにも熱心で、私淑していた三木のり平さんから教えを受けた演劇の手法を取り入れ、先代桂文楽の十八番だった「愛宕山」を現代風に改良するなどした。いかにも貴公子然とした雰囲気と畳み込むようなスピード感で、古典落語を深めていった。

落語評論家の保田武宏さんは「お父さんが名人だっただけに苦労も多かったと思うが、努力と精進を重ねて独自の芸風を確立した」と話している。以上、抜粋。

僕は小学生のころから落語に興味をもった。寄席は悪所と言って、親父は子どもの僕を寄席に連れて行ってくれなかったが、それでも父のレコードの棚から志ん生や文楽、金馬といった過去の名人たちの名演を収録したソノシートを見つけ出し、聴くごとに好きになった。高校時代にソニーレコードの京須偕充氏の尽力により録音がリリースされた志ん朝師匠のLPレコードもあったから、ますます夢中になり、大学に入学すると、TBS落語研究会なるものがあって、そこに志ん朝師匠が頻繁に出ているらしいとわかり、毎年早朝に並んで常連席券を買った。それでも、「テニスだ、ゴルフだ、ドライブだ」という友達に落語のことはカミングアウトできず、隠れキリシタンのように寄席に通った。

僕の子ども時代は「夜の指定席」や「お好み演芸会」といった番組が総合テレビで普通の時間に放送されていた。いま、落語ブームとは言われているものの、「演芸図鑑」は早朝5時に追いやられ、「日本の話芸」はEテレでの編成という酷い扱いだ。唯一のよすがはTBSの落語研究会で、これだけはノーカットで地上波、BS、CS、に棲み分けされて放送されている。「落語THEムーヴィー」や、「落語ディーパー」といった形での工夫や、「昭和元禄落語心中」や「いだてん」での落語のエッセンスを取り入れたドラマなどがあるが、日本国民の娯楽として黄金期だった時代は、もう戻ってこない。あくまで、落語を純粋に楽しもうという人々はマイノリティなのだ。

マイノリティの芸能なのだ、ということを踏まえて、このコロナ禍以降の演芸のことを考える。そのためには、古今亭志ん朝という存在がどういうものだったのか、改めて考えてみようと思った。志ん朝七夜は昭和56年に三百人劇場で開催された伝説の落語会、志ん朝師匠が40代の脂の乗った時期だが、まだ僕は高校生だったので、それに行くことは出来なかった。だが、その録音を聴くことでがきるのはソニーレコードの京須プロデューサーの説得の賜物だと感謝しなければならない。

この「志ん朝七夜」という名前をお借りして、僕の90年代以降の落語鑑賞の歩みを多少加えながら、高座に近い人たちの経験と文筆の力を借りて、しばらく振り返り、コロナ禍後の落語の在り方を探れればいいなと思っている。

志ん朝七夜(昭和56年4月11日~17日)

第一夜 「大山詣り」「首提灯」

第二夜 「百川」「高田馬場」

第三夜 「蔵前駕籠」「代脈」「お化け長屋」

第四夜 「大工調べ」「甲府ぃ」

第五夜 「堀ノ内」「化け物使い」「明烏」

第六夜 「火事息子」「雛鍔」

第七夜 「真田小僧」「駒長」「干物箱」