【文楽九月公演】男女の愛憎、親子の情愛、主従の忠義、夫婦愛…芝居の嘘と人間臭さが交錯する浄瑠璃の魅力

国立小劇場で「令和2年9月公演」を観ました。(2020・09・07&14)

今年2月以来の文楽公演である。5月は「義経千本桜」の初段から四段目までの通し狂言が予定されていたが、このコロナ禍で中止となり、7カ月ぶりに拝見、拝聴することができた。新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、通常は2部制だったものを4部制にして各上演時間を短縮、座席もソーシャルディスタンスをとって半分以下にするなどの対策がとられた。

果たして初日を迎えると、いきなり第2部に微熱のあるスタッフが出たため、初日第2部以降と二日目全てを休止。幸い、PCR検査の結果は陰性だったため、三日目から興行を再開し、それ以降は千穐楽まで無事に公演できたことは、出演者や制作スタッフ、運営スタッフの細かい配慮と地道な努力の賜物と感謝したい。

(第1部)

「寿二人三番叟」

コロナ禍で文楽はもちろん、古典芸能、さらに言うとエンターテインメント全般が休止を余儀なくされて半年あまり。オープニングの外題には「寿」の一字を入れ、荘重かつ軽快な三番叟によって、コロナが退散し、平穏な世の中が戻ってきますようにという願いが籠められた。

二体の人形が袖を振って鈴を打ち振りながら種を蒔く様子は、本来の五穀豊穣の祈りのみならず、不安な毎日を過ごしている我々の厄払いをしるようで嬉しかった。途中、一人が疲れて怠けようとするのを、もう一人が励ますという滑稽な場面も、可笑しみを感じながら「気を引き締めなくては」と思う次第だった。

「嫗山姥」~廓噺の段

涙にくれる沢瀉姫を慰めようと、局たちが煙草売りの源七を招き入れ、小唄を披露する軽妙さ。そこに「これは夫の作った唄では?」と館の脇を通った流浪する八重桐が、嘘を並べたて館に入りこみ、逃げる夫時行を横目に見ながら、姫に請われて身の上話をする場面が実に愉しい。喋りたくて喋りたくてしょうがなくて、身振り手振りも交え、夫との恋の顛末をペラペラ捲くし立て、夫へ当てこすりするところ、千歳太夫の浄瑠璃と勘十郎の人形遣いで盛り上がる。

後半、時行の妹・糸萩が代わりに仇討を果たしたことを聞き、武士としての不面目を恥じた時行が切腹するという。「俺の魂、一念でお前の胎内に子を宿らせ、その子に産んで養育し、さらなる仇討をしてくれ」と八重桐の頼む時行の願いは芝居ならではの展開で興味深い。そして、その一念を受けた八重桐は気絶し、何かに取り憑かれた鬼女になり、正盛の家臣をバンバン投げ飛ばす演出に目が離せない。千歳太夫の表情豊かな浄瑠璃、勘十郎のダイナミックな人形遣いに圧倒された。

(第2部)

「鑓の権三重帷子」浜の宮馬場の段~浅香市之進留守宅の段~数寄屋の段~伏見京橋敵討の段

鑓の名手の権三、その友人でありライバルである伴之丞。伴之丞の妹・お雪と権三は恋仲で、お雪からお互いの紋が入った帯をプレゼントされる間柄というのが微笑ましい。だが、それを知らない伴之丞は言いがかりをつけてきて、馬で対決、権三が勝ちを収める場面、美男子で武芸にも通じている男はカッコイイなぁ。

二人の茶道の師匠である市之進の妻おさゑも、そんな権三に惚れこんで、娘のお菊を添わせたい、いっそ私が一緒になりたい(おい、おい)くらいの強い気持ちがあるのもすごい。だから一子相伝の真の台子を伝授することを交換条件に、権三とお菊の結婚の約束を持ちだすのも仕方ないか。そして、権三はお雪という相手がいながら、真の台子の巻物ほしさに頷いてしまうのだから、もう!

さらに複雑なのがライバルの伴之丞が、おさゑに惚れていること。権三とお雪の祝言の仲人を忠太兵衛・おさゑ夫婦に頼むのだから、おさゑの嫉妬の炎がメラメラと激しく燃えるのも、これもまた女として仕方ないことに思う。

巻物の件で権三とおさゑが密会しているところに、伴之丞が忍び入り、見つかったとわかると、権三はお雪からのプレゼントの帯を解き、代わりにおさゑが自分の帯を解いて渡すが受け取らず、それゆえ「不義密通」の汚名を着せられてしまう展開もお芝居らしくて興味深い。

最後は不義を許せないおさゑの夫の市之進が権三とおさゑを討ち、武士の面目を保つ。それでおさゑは幸せだったような気がするし、権三も納得いく死ではなかったか。容疑をかけられたら有罪、そして死でお詫びをする。こういう美学が人形浄瑠璃文楽には流れている。好きだ。

なお、浅香市之進留守宅の段を語った織太夫が、病気休演の咲太夫の代演で数寄屋の段の切り場も続けて語り、美声を響かせた。14日から咲太夫復帰。

(第3部)

「絵本太功記」~夕顔棚の段~尼ヶ崎の段

一番に心惹かれたのは、散々ご注進申したにも拘わらず悪逆の限りを尽くす暴君・春長を天下のために討ち取った光秀の固い信念である。だが、主殺しは主殺し、逆賊の汚名を着せられるというのが世の常識である。それを悟った母さつきは、旅の僧が敵の久吉であることを察して風呂場に控え、久吉に替わって息子・光秀に槍で突かれるのも、少しでも息子の罪を軽くしようという親の愛情か。

また、劣勢が伝えられ中、光秀の息子・十次郎が許婚の初菊と夫婦固めの盃を交わし、出陣する場面。討ち死に覚悟の十次郎の心中を察する、母・操と許婚・初菊の悲しみを振り払う別れは沁みる。結局、出陣するも退却を余儀なくされ、息絶え絶えに戦場から戻ってきた風前の灯の十次郎を前に、さつき、操、初菊、光秀それぞれの嘆き哀しみを察すると、涙しかない。

尼ヶ崎の段、病気からの復帰なった呂勢太夫から呂太夫への弟子から師匠へのリレーが何とも言えず、良いなあ。

(第4部)

「壷坂観音霊験記」沢市内より山の段

天然痘に罹り、盲目となった沢市と、夫を愛し献身的に内職に励む妻・お里の夫婦愛の素晴らしさ。それゆえ、ミラクルが起こるというのも芝居として共鳴できる。

最初に夫の目が明くように密に毎晩壷坂観音にお祈りに出かけるお里を、沢市は誰か男と逢っているのではないか、と女房の不貞を疑う場面。沢市は逆に上機嫌で三味線を弾いて唄うというのが、いじらしくてたまらない。好きな男がいるのなら、打ち明けておくれと。実は沢市も眼病治癒を願ってのことだと知り、一旦は落胆し弱音を吐くが、じゃあ、明日からは二人でお参りに行こうと提案するけなげさ。普段男っぽい役の多い人形遣い、玉助がそのけなげを靖太夫、錣太夫の浄瑠璃で表現するところ、良かった。

だが、沢市はこの眼病は一生治らず、生涯お里に苦労をかけると観念したのであろう、「三日間、籠って断食して信心するから独りにしておくれ」と妻に告げ、崖から谷底に身投げして死んでしまう。胸騒ぎがしたお里は引き返すが、崖には杖があり、谷底に死骸が。夫思いゆえ、後を追って自分も身投げするとおうお里の気持ち、「あの世でも私が傍にいてあげないと道に迷うのでは」という台詞が沁みる。最後まで献身的なのだ。

そして起こった奇跡。壷坂観音が現れ、貞節と信心の功徳によって二人の寿命を延ばすという。晴れて二人は息を吹き返し、沢市の目は明く。ハッピーエンド。おとぎ話か、ファンタジーか、と笑うことなかれ。そこには妻は夫を思い、夫は妻を思う、互いの愛情が行き交っていたことは確かである。