柳家さん喬「塩原多助一代記」 真っ直ぐに生きろ、と大圓朝は教えてくれた(下)

日本橋公会堂で「さん喬ひとりきり三夜 塩原多助一代記」を聴きました。(2020・09・08~10)

第三夜 江戸本所の段~炭屋塩原~

実父への恩返しのため、沼田を出た多助は600文しか持っていなかったが、途中で追い剥ぎに遭い、長襦袢と荒縄という乞食同様に格好に。空腹を覚えるが、知っている人はいない。実父が戸田様のお勤めだと聞き付け、屋敷を訪ねるが、乞食のような多助は相手にしてくれない。なんとか、「塩原角右衛門に会いたい」と伝えると、「今、江戸にはいない。島原にいる」と言われる。

職に就こうにも、請け人がいないとできない。いっそ、川へ身投げしよう。昌平橋の上で覚悟を決める。そのとき、地面に石が敷き詰められているのに気づく。御影石か?石を触りながら、これなら雨が降ってもぬかったりしない。馬も通行するのに楽だと思う。で、南無阿弥陀仏と唱え、身投げしようとすると、二人に男が止めた。事情を訊く。上州沼田での乗っ取り事件の一部始終を話す。奉公がしたいが請け人がいない、と言うと、俺がなろうかと名乗ったのは、山口屋善右衛門。炭屋の主人だ。

「手を見せてみろ・・・いい手だ、働き者の立派な手だ。そう、ざらにいない。そんな宝物を川へ棄てるなんて」。善右衛門は自分の店で働いてもらうことにした。山口屋は江戸一番の炭屋だ。多助は労を惜しまず働く。早寝早起き。気が回る。世話を焼く。一番下の身分でありながら、ほかの奉公人に「こいつから学べ」と主人がいうほどだ。商売はモノを売るのではない。心を売るのだ。江戸っ子にも負けない、田舎者の心意気も買われた。誰もやっかむ者はいない。

ある日、番頭から戸田能登守へ荷を運ぶ用事を言いつけられた。炭俵2俵が2つ。合わせて4俵だ。「山口屋でごんす」。通用門を尋ねる。2俵は屋敷で預かるが、残りの2俵は、引越しの家へ届けてくれと命じられる。荷札には「角右衛門」とある。

訪ねる。「炭屋の山口屋でごんす」。「多助!」「かかさま!」運命の再会である。15年ぶり。「噂では炭屋の手代だと聞いていたよ」。だが、母のおきよから聞いた父は障子越しに、こう言う。「養子に出した子に何も言えない。孝、忠を教え込んできた。養父を見捨てる男になったのか。毎日泣き暮らした。我々がどれだけの思いで江戸で暮らしてきたか。50両を用立てた養父の気持ちを見捨てて・・・帰れ!二度と来るな」。養父を見捨てたと多助を責め、面会謝絶。多助は諦め、「お会いすること叶わないこと承知しました。どうぞ長生きを」と言って、荷車を曳いて帰る。「多助はいつぞや店を持ち、沼田を再興します。心の中で、よくやったと褒めてください。今生の別れです」。

その後、番頭が二度ほど戸田様への用事を多助に頼むが、断る。「嫌なことでもあったのか?」。事情を訊いた番頭は「行かせた私が悪かった。実父の言葉、身に沁みた」と言うのが精いっぱいだった。

多助が床下のズタ袋を集めている様子を見た長吉は、「何かのまじないか?」と訊く。「世の中に無駄なものは一切ない。曲がった釘、炭のクズ、草鞋の使い古し・・・」、みんな再利用で価値を見出すという。それを聞いた主人は、多助に屋根を修理させた物置を与える。「そこを使え」。だが、自分の裁量で得た収益も、「入った金は店のもの」と番頭に渡してしまう。商売の知恵を考えついたら、番頭に伝える。その一方で「早く店をもって、沼田を再興したい」という気持ちも捨てなかった。

主人の善右衛門は多助の成長ぶりに目を見張った。若旦那の孝太郎と仲良くさせ、「遊びを知ることによって、商いの切っ先が鋭くなる」ことを多助に仕込む。唄を教える。「がんす」という訛りを、江戸弁に矯正する。だが、それは多助には余分なことだった。「お前は今のままでいい」となった。給金を受け取らないから、善右衛門は帳面につけて、多助の蓄えにした。

ある日、多助が「金を貸してほしい」と番頭に頼む。20両。地面に石を敷きたい。御影石ではなく、玄蕃石がいい。炭を運ぶとき、ぬかるむ道は轍があって苦労する。足を取られる。よく転ぶ。ケガをする。だから、石を敷きたいと。簡単なことではない。町内の組合長が承諾しないといけないと番頭は言った。だが、「若旦那が話をつけてきてくれた。吉原の寄合で」「そんな裁量があったとは!」。

石を調達しなければなりません。「墓石屋が400枚あれば足りる。その分はあると答えてくれた」。人足代が。「20両でいい、と話しが通っている」。畏れ入ったね。番頭もそこまで手が回っていたら、反対できない。その道普請は評判を呼んだ。人々は感謝した。

炭粉に麩糊を混ぜて再利用した炭団を開発すると、安くて使いやすいと評判になった。「炭屋塩原」という店を持った。紋は馬に轡をデザインしたもの。田舎の青を忘れない気持ちからだ。金は手元に置いておいても仕方ない。使いたい人が使えば、元に戻る。困った人に貸せばいい。これは養父の教えだ。仲間には証文も取らずに大金を貸した。

商家・藤野屋杢左エ門の娘・お花が多助に惚れた。嫁になりたいと名乗りをあげる。木綿の着物に、髪飾りなどはつけない地味な女性だ。しかし、多助は身分が違うと断る。そこで、杢左エ門は多助の友人の桶屋の久八に話をつけ、養女に貰ってもらった。それで、多助も納得し、所帯を持つことになった。

実の父母へ報告に行くと、今度は受け入れてくれた。「あの折はすまないことをした。父を許してくれ」と、逆に頭を下げられた。沼田の家の建て直しもした。墓は新しく建立し、養父・角右衛門を供養した。多助とお花の婚礼の費用は実の両親が出した。馬の轡の紋の羽織と袴姿の多助。お花の髪には櫛と簪、これは母の思いである。その振袖姿の鮮やかさ。炭屋の嫁がそんな…と言いながら、晴れの舞台であった。

かつて多助が金を工面した商売仲間からは祝いとして十三艘もの船いっぱいの炭俵、「千両炭」が届いた。空を見上げてニッコリ笑う多助。「これで男になりやした」。朝焼けの空に、一頭の馬が駆け抜けているように見えた。

(完)

いやはや、感動、感涙である。自分の信じることを真っ直ぐに貫き通した多助の半生記が深く心に沁みた。様々な不条理や人間の心の汚い部分に邪魔されながらも、自分を信じることで成功に導いた多助の人生観は明治の修身の教科書だけでなく、現代に生きる我々の進むべき指針でもあるような気がした。

最後に、三遊亭圓朝師匠、脚色の黒田絵美子先生、口演の柳家さん喬師匠、ありがとうございました。