三遊亭兼好「落語は配信に向かない」 示唆に富む見識に膝を打った

朝日カルチャーセンターで「三遊亭兼好 噺のはなし」を聴きました。(2020・09・23)

同名の講座を受講したのが3月27日。そこからおよそ半年が経った。そのときにはすでに新型コロナウイルスの感染拡大ははじまっていたが、緊急事態宣言が出る直前で、まさか今もコロナ禍を引きずっているとは、兼好師匠も思っていなかっただろうし、僕もそうだった。ただ、師匠があのとき、別れ際にポツリと言った一言、「これで演芸の世界は変わると思います」は今も頭に隅にこびりついて離れない。

この半年で感じたことは「お客様はありがたい」ということだ、とまず第一声。そりゃあ、コロナ禍前もそう思っていたが、ことさらそう思うようになったという。落語という芸能はお客様の反応を見ながら進めていくものであり、その対象がいなくなると、なにをよすがに喋ってよいか、戸惑うと。無観客でカメラの前で喋るのはもちろん、観客数を減らしての公演が再開しても、マスクをしていると、お客様の反応が読めないと。

それと、地方の仕事が軒並み減っているそうだ。それは「東京の人が来たら、万が一感染者だったときにどうするか」というリスク以上に、観客数を減らすと収益が減り、出演料もそうだが、往復の交通費なども含め、コストが大幅に超えてしまうからだ。公演を実施したとしても、5人で座組していたものを、2人会にしてください、というようなことにもなる。昼夜で口演してくださいというのも。

落語の配信についての発言が示唆に富んでいた。テレビ放送などと比べ、勝手に誰もが知識さえあればできるようになった。それは芸の上で実力があるとか、人気があるとか、ベテランであるといった、これまでの基準とは全く関係がない。30歳以下の若い噺家で、配信技術についても慣れている人間がちゃんと考えて配信するのは強い。50歳以上はダメですね。「笑点」メンバーなんかはもっと高齢だから、もっとダメ。軒並み収入が激減しているのでは。

弟子が調べたら、1日に30くらいの番組の配信があるそうだ。結論から言うと、落語そのものは配信に合わない。ナマの落語の方が断然面白い。落語家は脚本家であり、演出家であり、出演者であるが、配信の場合はこれにプロデューサーでもなくてはならないと。(夢空間の)落語教育委員会のメンバーで無料の配信をしたら、兼好、歌武蔵の高座が1万、喬太郎の高座が1.5万の再生回数があったが、そのあとの3人による飲み会にお喋りが3万の再生回数。グズグズの内容の方が見やすいのだろうと。

落語会に行って落語を聴くいう行為は「集中力」を要する。15分でも40分でも同じこと。それは配信にも言えて、覚悟がないと視聴しない。だから、若い人は落語から離れていく。いま、若手の噺家たちがやっている配信も、落語そのものではなく、対談やトーク、さらに飲み会的なもの、もしくは大喜利。「集中力」を要する「落語を聴く」行為は、結局はブームとは言いながら、マニアックな趣味なのかもしれない。

もちろん、なかなかナマの落語に接する機会の少ない地方の方向けの配信は、コロナ禍が終息しても残るでしょうと。ただ、一定のルール作りが必要だとも。「営業ネタ」というのがある。どこで誰が演っても受ける落語(それは実力がない噺家でもというニュアンスを含む)があり、それは東京ではやらない。地方でやる。それを配信でやるのはやめましょう、とならなくてはいけない。「同じ噺だ」とお客様は離れていく。

このコロナ禍で、弟子入りがなくなった。今年一年は続くでしょう。そもそも、道楽を商売にしているわけで、「食えないよ」と言われて入っている。そのプロの厳しさと「遊びで習おう」という人には、はっきりとした境界がある。ぞろぞろ入門者が増えても困るわけだが。そう言って、「あくび指南」へと入ったセンスはさすが兼好師匠だと思った。