柳家さん喬「塩原多助一代記」 真っ直ぐに生きろ、と大圓朝は教えてくれた(上)
日本橋公会堂で「さん喬ひとりきり三夜 塩原多助一代記」を聴きました。(2020・09・08~10)
塩原多助と聞くと、僕は小学校時代を思い出す。父親が持っていたLPレコードに古今亭志ん生の「塩原多助 山口屋の強請り」が収録されていて、多助の「そうでガンス」という上州訛りが耳に残っている。噺の内容は全く覚えていないが、その塩原多助という人が実在の人物だと、明治生まれの祖父が言っていた。なんでも修身の教科書に載っていて、「一代で財を成した立派な人物だと習った」と教えてくれた。「修身?」と訊いたら、傍の母親が「今の道徳の授業よ」と補った。いまは「道徳」という授業もなくなったと聞くが。
三遊亭圓朝、屈指の長編人情噺である。わずか600文の銭を懐に上州から江戸へ出てきた塩原多助が数々の機転を利かせ、本所ではじめた炭薪の商いにより、一代で30万両の身代を築き、24か所の地所持ちになったという立身出世の物語。ここで僕が思い出すのは、昔は炭屋さん(大概は米屋さんが兼ねていた)が練炭やコークスを定期的に売りに家に来ていた思い出、さらに小学校低学年までは石炭ストーブだったので、日直は校舎の裏にバケツを持って行って、小遣いさん(のちに用務員さんと名前を変えた)から石炭を入れてもらった記憶だ。今回の塩原多助とはなんにも関係ないけれど、多助の工夫のところで、ちょっとそのことが頭をよぎった。
圓朝師匠は明治11年(1878年)に初演しているが、その2年前の8月から9月に上州沼田を取材旅行し、この作品を書いたとされている。最初は没落した塩原家にまつわる累世の因縁噺に興味を持っての取材だったらしい。91年には明治天皇の前で口演。そして、1900年に修身の教科書に採用されている。なるほど、おじいちゃんが言っていたのは本当だったんだ。
この長い「塩原多助一代記」を三夜で語りきるため、劇作家の黒田絵美子さんが脚色し、さん喬師匠がおよそ1時間ずつ口演した。自宅に圓朝全集があるが、不精な性分でしっかり読んでいないが、その長編の醍醐味を損なわず、かつ三夜で聴き手にも負担にならないよう、配慮の行き届いた脚色だったのではないか。そういう印象をもった。三夜合計およそ3時間で「塩原多助一代記」の魅力に触れることができたことは、黒田氏とさん喬師匠へ、ただただ感謝である。
では、どのような内容だったのか、3回にわたって振り返りたい。
第一夜 上州沼田の段~ふたりの角右衛門~
多助の父・塩原角右衛門は元は安倍伊予守の家来で800石取りだったが、真っ直ぐで譲らない性格ゆえに周囲から疎まれ、ついには浪人生活を余儀なくされ、上州沼田の山奥で狩人暮らしだ。妻のおきよの妹、おかめは17歳のときに家来に岸田右内と駆け落ちし、行方知らずになっていた。旅の途中で沼田に寄った右内は角右衛門と偶然に再会。「お取り潰しになったとは知らなかった」と詫びを入れる。角右衛門も義弟を許す。そのとき、多助は7歳。右内を「おじちゃん」と呼び、慕い、行動を伴にした。
妻おきよは、何とか夫の角右衛門を江戸務めに戻したいと考えていて、その願いを右内はかなえてあげたいと思う。しかし、支度金に50両が必要だ。ただでさえ、駆け落ちのときに20両を盗んでおかめと逃げた負い目がある。右内は必ず戻ってきますと、旅に出た。どうやって工面すれば…。そんなことを考えながら、歩いていると、茶屋のばあさんが「角さんじゃねえか」と、ある男に声をかけている様子を見た。百姓のようだ。「これから千鶴村にいくだ」。茶屋のじいさんが「角右衛門さん、いい馬がいるんだ。買わないか?」と声をかける。角右衛門?同名だ。気になって耳をそばだてた。
「この馬、艶があって、綺麗な目をしていて、めんこいな。歯も脚もしっかりしている。5両5粒の価値はある」。千鶴村に田地の掛け合いに行くという角右衛門は「今は金がない。手金だけでも」と言って、胴巻きから1両を出す。右内はその胴巻きを背後からチラリと覗いた。「60?いや、70か80両はある」と読んだ。「この金は田地の掛け合いの金だ。オラの金じゃない」と言う角右衛門の跡をつける。そして、ついには、右内が角右衛門に追いつき、「岸田右内と申す者だ」と名乗り、事情を話す。
「頼みがある。不躾を許してくれ。50両、お貸し願えないか。見ず知らずの人間になぜ?と思うかもしれないが、我が主君はそなたと同名の角右衛門なのだ、縁を感じてお願いしておる」。証文も書く、判も押す、主人の名前も教える、武士に二言はない、必ず返す、とすがる右内。だが、百姓の角右衛門は追い剥ぎにしか思えない。薪で追い払おうとする。揉み合いになる。ついには、右内は刀を抜く。「人殺しだぁー」。この騒ぎに狩りに出ていた塩原角右衛門は気づき、右内を鉄砲で撃つ。近づくと、撃った相手が右内だと気づいた。
「なぜ?」「旦那様を江戸務めしてもらうために」「忠義を鉄砲で撃ってしまった。許してくれ」。これを見た百姓の角右衛門は驚く。「本当ですか?岸田何とかというのは。話をちゃんと訊いてあげればよかった。堪忍しておくれ。名が同じなのも、みな私の不徳」。死んだ右内を回向する。二人の角右衛門がお互いに「自分が悪かった」と、相手の角右衛門を擁護する。百姓の角右衛門は50両を渡すが、塩原角右衛門は固辞する。「では」と言って、「50両のカタに坊ちゃまを引き取りましょう。オラに預けてくれ。オラの夫婦は子どもがいない。あなたが江戸務めしている間に、立派に育ててお返しする」。躊躇する塩原角右衛門。だが、多助本人が「オラ、行くよ。オラが行けば、お父様は江戸務めができる。お父様はここに燻ぶっているいる人じゃない、立派な方だ。死んだおじさまも喜ぶべ」。
それから10年。多助は立派な百姓になった。よく働くばかりでなく、人格に優れ、人から尊敬される人間になれという養父の教えに従い、立派に成人した。その育ての母親おみつが55歳で亡くなった。多助は馬の青を伴い、墓参りへ。「ようやく泣かなくなりました」。
沼田の角右衛門はある日、悪党に囲まれ逃げているという女性を連れて帰る。それは死んだ右内の生き別れた妻おかめだった。悪党に囲まれたとき、思わず手を離してしまい、娘おえいの行方がわからなくなったという。「今、どこで何をしているのか。変なことに巻き込まれていなければいいが。どこかに売り飛ばされてやしないか」。心配は尽きない。多助の叔母さんに当たるおかめは、角右衛門が妻を亡くしたこともあって、20歳違いの夫婦になった。
角右衛門がまだ帰らずに、多助とおかめの母子で寝ていた晩。「多助!あけろ!」と声がする。養父が綺麗な娘を連れて帰ってきた。思わず、おかめと多助は目を疑う。なんと、それは生き別れたおえいだったのだ。思わぬ再会。悪党に連れ去られ、泥棒の手伝いなどをさせられたり、男を誑かせて金を巻き上げたり、悪事の片棒を担がされた辛い体験を話す。江戸で大火事があったときに、真っ黒な男の子が助けを求めてきたので、角右衛門が救い、湯に入ったら、なんと女の子だったというエピソードもいまは笑って話せる。
養父の角右衛門は、おかめと夫婦になったが、亡くなった右内への申し訳ない気持ちがいつまでも重荷としてあったという。これで一生終わるのかと思ったら、お地蔵様の引き合わせか。力が抜けた。そして多左衛門を身請け人に、多助とおえいは夫婦となり、身代を譲る。そして、安心したかのように、角右衛門は安らかに息を引き取ったのだった。そのとき、多助は20歳。
さて、この続きは第二夜へ。