【追悼 内海桂子】生涯現役、ちゃきちゃきの浅草っ子の生きざまから、芸人のみならず私たちは多くを学んだ

漫才コンビ「内海桂子・好江」で知られた東京漫才の第一人者、内海桂子師匠が8月22日に亡くなった。享年97。

僕の中で、明確に内海桂子師匠の記憶が残っているのはNHKテレビで放送していた「ばらえてい テレビファソラシド」である。司会は永六輔さんと加賀美幸子アナウンサー。後に新人の頼近美津子アナウンサーが加わった。1979年4月から82年3月まで、3年間の放送だったが、僕は中学3年生から高校2年生の多感な時期だったので、「夢で逢いましょう」を見ていた両親の世代のそれがテレビ青春期だとすると、それに近い感覚で僕は「テレビファソラシド」を毎週見ていたような気がする。そこに、準レギュラーとして内海桂子・好江が出演していた。タモリや新人歌手の近藤真彦などもこの番組で知った。

女性アナウンサーがたくさん出てくるのが画期的だった。多分、永さんの働きかけで、それまで添え物的な存在だった女性アナウンサーを看板にしたのではないか。アナウンス室が「芸者置屋」などと呼ばれていた時代。僕が就職活動のときに、男女雇用機会均等法が施行され、女子アナブームなどが生まれたが、その前の時代のお話だ。この番組で、桂子師匠がよく女性アナウンサーにお説教をしていた。それはけして意地悪なものではなく、男性社会の中で生き延びてきた人生経験からくるアドバイスのようなものだったと記憶している。おぼろげに将来、こんなバラエティー番組を創りたいという気持ちが僕にはあったのかもしれない。

で、しばしば番組内で「内海桂子・好江」の漫才も披露された。のちに「THE・MANZAI」として漫才ブームがおきるが、僕はあまり興味を持たなかった。どちらかというと上方中心の漫才より、東京の笑いが好きだった。だから、「てんぷく笑劇場」も毎週見ていて、三波伸介さんや伊東四朗さんが好きだった。2001年に刊行された内海桂子著「桂子 八十歳の腹づつみ」(東京新聞出版局)から抜粋。

昭和25年に内海桂子・好江コンビが本格的にスタートしました。戦争の4年間、吉原でお団子を売ったり、ホステスになったり、芸の道という意味で随分と回り道だったかもしれません。しかし、それは無駄ではなかったのです。回り道があったから、自分の引き出しが3つも4つも増えたと思っています。(中略)どんな境遇に置かれても、体当たりでぶつかれば、いつか花の咲く日がやってくる。若い人もぐずぐず言ってないで、がんばんなさいよ。

「2人とも着物で、片方だけ三味線じゃ格好がつかない。弾けなくてもいいから、好江ちゃんにも三味線を持たせなさい」。こうアドバイスしてくれたのは、私が三代にわたってお世話になっているマセキ芸能社の柵木政吉先代社長でした。(中略)好江さんは、血のにじむような勉強をしたはずです。「音が聴こえないよ。さすってんじゃないよ」。わざとお客さんに聞こえるように言いました。「桂子さんは鬼ばばあだ」。楽屋で聞いていた芸人さんがいいました。むごいことだったと思います。そんなシゴキに耐え抜いて好江さんはどんどん成長していくのです。

漫才師の登竜門だったNHK漫才コンクールが発足した昭和31年の第1回大会から挑戦しました。「何もいまさら桂子さんがコンクールなんかに出なくてもいいんじゃないの」。私がかれこれ20年近く漫才をやっていることを知っている人たちからこう言われましたが、私なりに好江さんを一人前として認めさせる一つのけじめの意味もあって、意地になって出ました。

「お前さんが下手だから落ちたんだ!!」。3回目の落選のとき、頭にきた私はこう本人に言ってしまいました。その晩、好江さんは睡眠薬自殺を図りました。ひと晩、寝ずの看病をしましたが、飲んだ量が多すぎて生きて返ってくれました。次の第4回コンクールで優勝できました。以上、抜粋。

芸の道の厳しさ。それは今も昔も変わらない。それはどんな職業にも共通すると僕は思う。愛情ゆえの激しい罵声を、現代ではパワハラなどと呼んで若い芽を育てるどころか、摘んでしまっている。令和の時代に就職しなくて良かったと思う。昭和の頃の「若手はとことん追い詰めろ。それに反撥するパワーを蓄えることで成長するんだ」という新人育成の考え方は、過労死しては元も子もないけれど、ある程度は必要ではないか。もちろん、その指導に愛情が裏打ちされてこそだけれど。僕も新人時代に「鬼!」と思った人に、いまは感謝している。数年経って、ある程度一人前(二ツ目?)になったところからが勝負。そこでもまだ自分の保身のために若い芽を摘んだ人のことは恨んでいます。

再び、内海桂子著「桂子 八十歳の腹づつみ」(東京新聞出版局)から抜粋。

「おねえさん、これまで本当にありがとうございました」。好江さんが、突然こう言って、涙ながらに深々と頭を下げました。一瞬、私もびっくりしましたが、好江さんの気持ちが素直にこちらに伝わり、熱いものがどっとこみあげて、二人は固い握手を交わしたまま、しばらくはハンカチが離せませんでした。私たちを見守る大勢の周囲からも声ひとつ上がらず、しばらくして「おめでとう!!」の歓声と拍手が渦巻いたのでした。

昭和57年、漫才師としては初めてという、大きな芸術選奨文部大臣賞を頂きました。その年度に、目覚ましい活躍をした芸能人に与えらる賞ということで、個人だけでなく、漫才界に籍をおく身にも嬉しいことでした。「よき浅草時代の寄席の雰囲気を持った桂子に、好江の当世風の小気味良さが絡み、下町人情をたっぷりにじませた舞台」。」評論家・矢野誠一先生の身に余る賛辞でした。以上、抜粋。

桂子師匠のお宅を訪ね、2時間ほど取材したことがある。2010年、ラジオ井戸端会議「老いと仲良くつきあっていますか」という4日間連続のシリーズを立て、桂子師匠のほかに、中村メイコさん、赤瀬川源平さん(「老人力」著者)、堀江謙一さん(ヨットで太平洋横断成功後も継続して冒険を継続)を、ゲストにラインナップした。そのとき、僕が師匠の話を訊く横でサポートされていたのが、24歳年下の夫であり、マネージャーの成田常也さんだった。師匠はそのときからツイッターをされていて、成田さんが師匠の言うことを140字にまとめてアップしていたのだと知った。恥ずかしながら、僕はその影響でお会いしたその年の10月にツイッターをはじめている。

ご亭主との出会いについて、内海桂子著「桂子 八十歳の腹づつみ」(東京新聞出版局)から抜粋。

「私はナリタと申します。突然のお電話で申し訳ありません。私はアメリカに住んでいるのですが、いま出張で日本に来ています。前から師匠のファンでして、紹介状もなく直接では失礼とは思いましたが、電話させていただきました」。昭和62年2月のある日の夕方、「チリチリ」鳴る電話機の脇を通りかかって、何の気なしにひょいと取った受話器からこんな声が流れてきました。(中略)

それから一カ月、桜の花がほころび始めるころ、成田青年から二度目の電話がありました。「会社の方で大きな計画が進んでいまして、また出張のチャンスができました。できましたらご拝顔の栄を賜りたいのですが」。ロサンゼルスの航空関連の会社に勤めていて、向こうで時々開いている「米州寄席」に漫才がないので、桂子・好江コンビを招く企画を話し合いたいと、元気いっぱいの長電話です。

その後、数カ月ごとに日本に出張してきました。仕事は2日ぐらいで終え、後は私に会うための出張だったようです。それ以上に凄かったのは手紙攻勢です。「おばあちゃん、この人おかしいよ。今日もきてるよ」。孫たちもひっきりなしの手紙をポストから私に届けながらびっくりしていたほどです。あれよあれよと、1年半で300通に達しました。(中略)幾度目かの出張のとき、足立の家に一晩泊まって、彼はロスに帰りました。何日かして茶色の封筒の手紙が届きました。いつものアメリカからでは白い封筒ですが、その手紙は日本の切手が貼ってあるんです。妙な予感がありました。「結婚してください」。ズバリ、求婚の手紙でした。以上、抜粋。

99年に結婚。成田さんが代筆して毎日のように更新したツイッター。4月14日の最後の投稿では、コロナ禍で近所の店の相次ぐ休業について「本当にどうやって暮らしを立てていくのだろう」と憂いていた。芸人・内海桂子は芸人さんの鑑であると同時に、その生き方は我々一般庶民にとっても学ぶことが多いのではないだろうか。少なくとも、僕は教えられることが多かったことを感謝している。ありがとうございました、桂子師匠!ご冥福をお祈り申し上げます。合掌。