吉例夏夜噺「さん喬・権太楼特選集」20年 “ライバル”誕生の90年代に思いを馳せた

鈴本演芸場で「特別興行 さん喬・権太楼特選集」を観ました。(2020・08・20)

お盆興行の八月中席「鈴本夏まつり」夜の部で、さん喬師匠と権太楼師匠がそれぞれに10日間ネタ出しをして交互にトリを取る「特選集」がスタートしたのは、2000年(平成12年)。今年でちょうど、20年だ。今年はコロナ禍で、定員の半分しかお客様を入れることができないためか、ネタ出しはトリを取る方ということで、半分ずつのネタ出し。僕はトリが権太楼師匠で「居残り佐平次」を出している千穐楽に伺った。さん喬師匠は「おしゃべり往生」(作・黒田絵美子)というレアネタで、僕は2011年6月以来だったが、これを実に愉しそうに演じられているのが印象的だった。そして、権太楼師匠も50分近い大熱演、大爆笑の居残りで、場内はこんな言い方は変かもしれないが、静かに盛り上がった。心の中で各自が興奮していたに違いない客席だった。それだけ、平時の笑いを演者と観客が懐かしんでいるのだと実感した。

よくライバルとか、言われる二人だけれども、これには歴史がある。「東京かわら版」2013年8月号の「スペシャル対談 二人はライバル!?柳家さん喬・柳家権太楼」から抜粋。

さん喬 もう亡くなりましたけど渡辺っていう落語協会の事務局長がいましてね、その人に呼ばれて「これから落語界を背負っていくのはあなたたち二人ですから、二人で落語会をやってください」って言われたんです。

権太楼 お前ら二人のうち、どっちかが売れりゃあいいよっつうぐらいの言い方をしてきましたよ。そうすればウチ(落語協会)も儲かるからって。

さん喬 「私は別に依怙贔屓してるわけじゃないし、お二人が好きな訳でもなんでもありません」って。

権太楼 「お二人の仲が悪いのも知っています」って言ってたよ(笑)。以上、抜粋。

落語協会主催という形で、1992年2月から東京芸術劇場小ホール2で、年5回、さん喬・権太楼二人会が開催された。95年10月の第20回まで続いた。以下、演目。

①92・02・18 さん喬「抜け雀」「禁酒番屋」権太楼「錦の袈裟」「子別れ」

②92・04・28 さん喬「長屋の花見」「妾馬」権太楼「宿屋の仇討」「反対俥」

③92・06・08 さん喬「らくだ」「千両みかん」権太楼「厩火事」「居残り佐平次」

④92・08・29 さん喬「水屋の富」「唐茄子屋政談」権太楼「たちきり」「青菜」

⑤92・10・06 さん喬「三枚起請」「万金丹」権太楼「火焔太鼓」「佐野山」

⑥93・02・02 さん喬「花見の仇討」「浮世床」権太楼「手紙無筆」「幾代餅」

⑦93・04・06 さん喬「ろくろっ首」「突き落し」権太楼「お化け長屋」「ねずみ」

⑧93・06・08 さん喬「中村仲蔵」「浮世根問」権太楼「一分茶番」「金明竹」

⑨93・09・11 さん喬「心眼」「だくだく」権太楼「宗論」「大工調べ」

⑩93・10・20 さん喬「宗論」「肝つぶし」権太楼「短命」「船徳」

⑪94・02・20 さん喬「庖丁」「巌流島」権太楼「善哉公社」「試し酒」

⑫94・04・26 さん喬「三人旅」「鹿政談」権太楼「抜け雀」「長短」

⑬94・06・07 さん喬「柳田格之進」権太楼「野ざらし」「三枚起請」

⑭94・08・20 さん喬「天災」「死神」権太楼「猫と金魚」「鰻の幇間」

⑮94・10・12 さん喬「明烏」「目黒のさんま」権太楼「お見立て」「疝気の虫

⑯95・02・23 さん喬「黄金の大黒」「按摩の炬燵」権太楼「居酒屋」「夢金」

⑰95・04・04 さん喬「幾代餅」「締め込み」権太楼「化け物使い」「そば清」

⑱95・06・21 さん喬「片棒」「白ざつま」権太楼「死神」「あくび指南」

⑲95・08・17 さん喬「牡丹燈記」「粗忽長屋」権太楼「青菜」「唐茄子屋政談」

⑳95・10・18 演目不明

古い資料を引っ張り出してきたのだけれど、どうしても、最終回の演目が不明である。どなたか、おわかりの方は教えていただけますでしょうか。

この資料を探したときに、「落語見聞録 94」と書かれた大学ノートが出てきた。僕が30歳のときの感想文だ。そこから、8月20日を抜粋。

もう14回である。「そろそろ区切りかな」と権太楼は言う。こうやって2か月に1回、ネタおろしで演るというのは、噺家にとっては大変なプレッシャーなんですよと。高座にかける、というのは、自分の中では、ほぼ70%できあがったときである、それが60%になり、50%になり、はたまた40%になり・・・やってやれないことはない、それなりに真打として10年以上のキャリアを積んでいるのだから、何とか形にはできる、お客を喜ばすことはできる、笑わす自信はある、だが、しかし、やっぱり50%しか出来上がっていないでお客を喜ばせようとすると、どうしても姑息な手段を使ったりしなくてはならず、「逃げ」の芸になる、これこそが「芸が荒れる」ということだ、と。20回がいい区切りかな、と思うと権太楼は言った。芸の道というのは、かくも厳しいものだと思う。以上、抜粋。

このとき、権太楼師匠は「鰻の幇間」をネタおろしだった。僕のノートにはこうある。

プログラムでは「猫の金魚」が後になっていたが、「鰻の幇間」が自信がないので、と断って、こちらを先に。志ん朝師匠とクスグリ自体は殆んど変わっていなかった。この噺は騙されたと分かったときの悪態が肝だが、「布巾でテーブルを拭きなさい!」というところが、権太楼さんらしく、全体として権太楼風味になっていたと思う。

権太楼師匠は当時、47歳。30歳の僕がこんなことを自分だけの覚書とはいえ書いている生意気は許していただくとして、「ヨシオちゃん!」が愉しい「鰻の幇間」までの道のりに様々な試行錯誤があったことがうかがわれる。

ちなみに、この94年8月20日のページには開口一番であがった柳家喬太郎さんの高座の感想が書かれていて興味深い。「彼の新作が最近、面白くなってきた。特に女子大生やOLの風俗描写が妙に笑える。ストーリーよりも、個々のディテールの可笑しさ」と書かれ、演目名はわからなかったのだろう、記されていない。一体、なんだったのだろう?これもわかる方がいたら、教えてください。これは相当難しいと思うけれど。

そんなこんなで、さん喬・権太楼ライバル物語について考察してみました。