立川流マゴデシたちの才気走る高座 流派を超えて落語界に新しい大きな風を吹かせてほしい!

上野広小路亭で「立川流 孫弟子の会」を観ました。(2020・08・17)

通称、マゴデシ寄席に行った。亡き立川談志師匠の孫弟子にあたる若手の真打と二ツ目が出演する会で、この日はこしら師匠のほかは(開口一番に上がった前座の笑えもん、縄四楼を除く)3人とも二ツ目だが、とても優秀な落語家さんだ。

吉笑さんは2010年11月入門、12年4月二ツ目と先輩格で、鯉八、昇々、太福と結成したソーゾーシーのユニットでも活躍、真打も射程距離に見えてきている。談洲さんは17年1月入門ながら19年12月、かしめさんは15年入門で今年4月にそれぞれ二ツ目昇進したばかりだが(※正確には、かしめさんは、こしら師匠の弟子なので、談志師匠の曾孫弟子)、どちらもユーモアセンス抜群な上に、理路整然と落語を咀嚼し、自分の視点で再構築できる才能の持ち主である。こしら師匠含めて、この4人が出演ということもあり、おっとり刀で駆けつけた。

立川談洲「お見立て」

喜助が「杢兵衛大尽がお見えです」と言うと、喜瀬川花魁は田舎っぺな杢さんが大嫌いで、出たくないので、「死んだと言って断っておくれ」。これはインパクト抜群。だいたいは病気で入院→見舞いしたい→じゃぁ、いっそのこと死んだということになるが、いきなり「死んだこと」にはビックリ。すると、喜助がさすがにそれは如何なものかと「人の生き死にを洒落や冗談でも言うものではない」と母親から躾けられたと回避する。で、10日前にひいた風邪をこじらせたことにするのだが、結局は「死んだこと」にしないといけなくなるのなら、喜瀬川の主張もなまじ極端ではなく、芯を突いているとも言えるのでは。

喜瀬川の「焦がれ死に」のストーリー構築、そして「墓参りで煙に巻く」方法を、ペラペラと捲くし立てるように喜助に話す頭の回転のスピード。それをまた、「そんな嘘はできない」と言いつつも、期待以上の役者顔負けの演技力で杢兵衛大尽を墓参りまで連れ出す喜助の潜在能力。これは「お見立て」という噺の一番大切な骨格だが、それをきちんと壊すことなく、だけれども、どうしてもリアリティーに欠けてしまう落語の嘘というハードルをぴょんぴょんと軽快に飛び越えていく話術に談洲さん独自の落語観を見たような気がする。

立川かしめ「猫と金魚」

金魚鉢の金魚を隣の猫が狙う。それをどう防ぐか、という田河水泡先生の新作落語すなわちもはや古典落語となってしまった噺をいかに令和の笑いにするか。腐心しているかしめさんの姿勢がガッツリ見えた。旦那と粗忽な番頭のやりとりの合間にちょいちょい、外の通りを行く金魚売りの売り声を挟み込む演出がすばらしい。

番頭の粗忽はもはや尋常ではなく、粗忽というより、ちょっと人間離れした怖さをキャラクターにこめている。猫の手の届かないように「金魚を上げておくれ」が、カラッと油で「揚げて」食べてしまうし、高いところに上げておくれと言われ、湯屋の煙突の上に金魚をあげ、「干上がって」しまった「干物のような」金魚もこれまた食べてしまった。「金魚は見て楽しむものだ。食べて楽しむものじゃない」「ごちそうさまでした」。そのたびに金魚が売れて嬉しい金魚屋の売り声が響く。

番頭では埒があかないと、定吉に頼むと「褒美に金魚が食べられるんですか?」と訊かれ、女中のつるに頼むと「あれは焼き目が難しい」と言われ、鳶頭の虎さんは猫をとっちめて猫を食べる始末。金魚っ食いたちの集団のお店の周囲を♪キンギョォーエー、キンギョォーと売り歩く金魚屋の声が不気味。田河水泡の「のらくろ」を、永井豪の「ハレンチ学園」にしてしまった面白さ。比喩が下手でごめんなさい。

立川吉笑「DX落語」

デジタル、ネット、AI・・・。どんどんと科学技術が発達し、僕のような昭和30年代生まれの人間は置いてけ堀になる世の中。働き方改革とは何か?吉笑さんはそれが功罪含め、わかっている。その上での新作落語なのだが、僕にも通じるのは、やはり根底にいくらテクノロジーが発達しても、最後にところは人間=アナログに戻ってくるのだという部分に共感するからだろう。

MA2(マーケティング・オートメーション)、DX(デジタル・トランス・フォーメーション)。この二つの言葉を、様々な専門用語によるベンチャー企業の人間の説明を理解しようと思っても無理な話。というか、彼らも理解してもらおうと思って説明していないから。なんか、最先端っぽいから採用してみるか?と持ち込めればいいわけで。わざとわかりづらい言葉を駆使するんだと。

昔の営業のやり方、チラシを撒く、飛び込み営業。そんなアナログ人間の古き良き文化と共存できることこそ重要なのだと、この噺は教えてくれた。無駄を省くというのは一見良いことに見えるが、それでは了見が腐る。気合い、情熱、信念、そして人間性こそ命。最後に「丸太ん棒、べらぼうめ、糞を食らって西へ飛べ!」という見事な啖呵で合格するサゲがそれを象徴している。「落語界の知性」吉笑さんは、この先、20年、30年を見ている。

立川こしら「千両みかん」

トリなのに、後輩たちがどんどん押して、持ち時間が15分とは!とニコニコしながら嘆いて、コロナ感染検査アプリ「ココア」を高座で出して、「陰性です。安心して落語を楽しんでください」と冒頭で言うのが、こしら師匠らしくていいですよね。で、「夏らしい噺を」と「千両みかん」。若旦那が初めて出てくるのが、番頭が千両で問屋からみかんを買ってきて、渡すところ!という快挙。それまでは、大旦那と番頭のやりとりだけでストーリーを展開しちゃうの。

若旦那の心の思っていることを訊き出すやりとりとか、みかん問屋が意地になって1個だけ腐っていないみかんを蔵から出してプライドを示すところとか、「みかん千両」という高値に番頭がビックリするのに、大旦那が「命が助かるなら安いもんだ」とか、「いろいろあって」と、すべて端折って省略するのを聞いて、「すげー!」と思った。

そいでもって、若旦那が3房だけ「両親と番頭の分」と言って渡したら、番頭はそれを持って逐電なんかしない!冷静になって考えたから!いくら熱帯のような暑さでも、そこまでは狂わないよ。で、そこへ、どこかの大店の使いが「うちの若旦那が、みかんを食べないと死んじゃうんです!」と現れ、300両で売りましたとさ、メデタシ、メデタシ。

立川流の若手は新しい落語を創造している。この動きが、流派を超えて交流すれば、まだまだ古臭さの残る演芸の世界に新しい風を巻き起こすに違いないと思っている。果たしてそれは、竜巻なのか、台風なのか、はたまた落語や寄席を大きく呑み込む津波なのか。大変楽しみだ。