隅田川馬石「唐茄子屋政談」 たっぷりの持ち時間と力量ある演者によって、本来の「情」が浮かび上がる

日本橋社会教育会館で「馬石 人形町スペシャル」を観ました。(2020・08・16)

「唐茄子屋政談」は大好きな噺だ。ただ、だいたいの噺家さんが時間の関係などでどこかを端折ってしまう場合が多いので、その魅力をたっぷりと堪能できないのが残念である。寄席の場合、トリであっても30分、長くて40分程度しか持ち時間がない。僕の一方的な思い込みだが、50分は欲しいところだ、だから、ホール落語で聴くしかない。長いとダレると言う人がいるが、それは演者に力量がない場合で、むしろ、「あ、ここを端折ったな」と感じてしまうことの方がダレる。物理的な問題ではなく、たっぷりの持ち時間と力量のある演者によって、「唐茄子屋政談」は素晴らしい高座になるのだ。

果たして、この日の隅田川馬石師匠の高座がそれで、中入り前に「狸札」を簡単に済ましてしまい、十分に時間を残して、「唐茄子屋政談」を余すことなく演っていただいた。感謝である。

この噺で好きなところはいっぱいある。まず、吾妻橋で若旦那を「拾った」叔父さんの人情。天秤棒担いだ若旦那が田原町で躓いて倒れていたところを見た江戸っ子が事情を訊いて、唐茄子をほとんど近所の仲間に売りさばく人情。若旦那が「売り声をしないから売れない」と気づき、吉原田圃で、花魁との思い出を振り返ながらの売り声の稽古。そして、誓願寺店で食うに困った女所帯のおかみさんの事情を訊き、売り溜めをすべてあげてしまう若旦那の情。さらに、真心に立ち返ったか確かめるために叔父さんが若旦那の案内で誓願寺店に行くと、隣家のおばあさんがおかみさんが首を括ったと一部始終を話そうとするが、泣きだしてしまう人間的な部分。最後、売り溜めをそのままそっくり、店賃の滞りに奪ってしまう因業大家への襲撃。そして、若旦那の勘当が揺れた結末。みーんな大好きで、だから全部聴きたいのだ。それを馬石師匠が演ってくれた。

父親や番頭さんの忠告も馬耳東風、「お天道様と米の飯はついてくらぁ」とうそぶいた若旦那だが、金の切れ目が縁の切れ目だったことを知る。後悔を先に立たせて後からみれば杖をついたり転んだり。まさに、そうだ。ボロボロの浴衣の一枚で湯屋にも行ってないから、夕立ちがシャワー代わりになるなんてところまで落ちぶれた若旦那は、生きていても仕方ないと身投げを考えるのも当然かも親戚にも廻状が回っていて、助けてくれるな、ということだから、味方がいないのは心細くなるだろう。

だけど、本所達磨横丁の叔父さん夫婦だけは心配してくれた。吾妻橋で若旦那を引き留めたときに、「お前と知っていたら止めるんじゃなかった」というが、実際は叔母さんが言うように「毎日我が子のように心配していた」し、「ここを訪ねてくればいいのに」と思っていたというように、本当の愛とは、見かけの優しさではなくて、了見のところから若旦那を入れ替えてやろうという気概なのだと気づく。叔母さんが「鰻とろうか」に「こいつは川で鰻に食われようとしていたんだ」、「蚊帳が二階にない」に「蚊が食うと蚊がバカになっちゃう」と言うのは愛情の裏返し。特に万八、山吉といった高級料亭の名前を出して、「そんなところで食べるのは美味いに決まっているんだ」と小言を言うあたり、すごくいい。

翌朝、天秤を担いで唐茄子を売る準備を整えた叔父さん。笠の中にイチジクの葉を入れろ、弁当には梅干しを入れておけ、と細かい配慮をしているのも優しさの表れだ。吾妻橋で「言うことは何でも聞く」と言った若旦那なのに、唐茄子を売って歩くと聞いて、「外聞が悪い」「みっともない」とわがままを言うのは、まだ了見を入れ替えていない証拠。そこの叔父さんの説教も怖いけど、愛情あふれている。「唐茄子の方がみっともない、と言うよ」「今すぐ着替えて、出てけ!川へ飛び込め!」。「てめえの稼いだ金で遊べ。親父の金をチョロまかして遊ぶのは遊びと言わない」。「俺はお前の親父とは違う。稼いだ金で遊びたいんだったら、足りない分は喜んで出してやる。一人じゃ寂しいなら、叔父さんも一緒に行ってやる」。

屁っ放り腰で天秤を担げない若旦那に、「腰で担ぐんだ」と手本を見せてやる叔父さんだが、荷が重くて持ち上がらなくて、叔母さんが後ろで手伝ってしまう、そんな愛嬌も叔父さんの人柄を表している。ようやく担げるようになった若旦那の経路にいるご近所さんや納豆売りに「道をあけてやってくれ」と声がけするのも、本当に優しい。

田原町で若旦那が小石に躓いて転ぶ。「人殺しぃー!」。その現場を目撃した男は事情を訊き、荷を軽くしてやろうと、通りかかる知り合いに唐茄子を売りさばいてやるのも人情。赤の他人に対して、今、そこまでやってやれる人がいるだろうか。それも、「トーナス!トーナス!買わないと損するよ!」と手を叩いて売ってくれるんだ。ガチャガチャじゃあるまいし!と購入拒否した半公が、3年前の居候時代に安倍川13切れ事件を持ち出されてしまうのも、これまたご愛嬌。町内のコミュニティの温かさよ。若旦那にとっては恩人だから、「お名前を!」と訊くのだが、拒み、「また売ってやるから、来な」。カッコイイ!

残った2個を売ろう。売り声を出さないと、売っているのか、運んでいるのか、わからないという若旦那の世間知らずがいい。人のいないところで稽古しようとしたら、脇で立ち小便していた男に「ビックリするじゃねえか!」と言われるのも、馬石師匠の絶妙なアクセントだ。で、吉原田圃に出る。「カエルだったら、知り合いいない」というのは、まだこの商売に恥ずかしさを覚えているのか。菜の花や向こうに蝶の屋根が見え。ここから、楽しかった花魁との日々を思い出す場面。

大事なのは、若旦那はまだ花魁が本気で自分のことを惚れていたと信じていることだ。ここにも、若旦那の世間知らず、苦労知らずが見える。いや、もしかしたら、花魁も本気で若旦那のことを愛していたのかも。そのあたりはわからない。やらずの雨が降った朝。「直しておくれ」という甘い言葉に乗った。鍋をとって、食べる。シラタキが舌の先で結べた。踊りを踊る。都々逸の廻しっこ。別れがつらいと小声で言えば締める博多の帯が泣く。三味線を弾くのをやめて、花魁がジーッと若旦那をみつめる。「お前さん、どこまでかわいいの」。耳たぶをかじる。馬石師匠、細かい描写がいい。こりゃぁ、本当に惚れ合った仲かも。

誓願寺店で浪々の身の主人が金の工面をすると出て行って帰ってこず、内職も風邪をひいてできなくて三日食べていないという、おかみさんと子どもを哀れに思い、そこまでの売り溜めを渡してしまって、叔父さんの家に帰ってきた若旦那。荷を空にして帰ってきた、と喜ぶ叔父さんだが、どうも様子が違うので、事情を訊く。そのときの叔父さんの反応にリアリティがあった。

「そんな偉い人間とは叔父さんは付き合えない。どうせ、唐茄子を堀へ放り込んで油でも売っていたんだろう。そんな了見の奴は、今から大川へ飛び込め!性根が曲がっている」。叔母さんが優しく、若旦那に訊く。「本当に、おかみさんにやったの?ハナから話してごらん」。これで、ようやく叔父さんも理解した。「それはお前、気前がよかった。だがな、金さえあれば、助かるというもんじゃないぞ」。

二人は提灯をさげて誓願寺店へ。大勢の人だかり。「何かあったんですか?」「あ、あのときの!」。隣家のおばあさんだ。若旦那が渡した売り溜めを返そうと、おかみさんは追いかけたが、そこに因業大家が通りかかり、滞っている店賃として巻き上げてしまった。月番さんがそれは後から取り返すということで収まったのだが、おかみさんの家の灯が点いていない。おかしい、と覗くと、おかみさんは梁に首を吊っていた。すぐに皆で降ろして、安堵したところだが、医者を呼びたいが金がない。どうしたものか、と思案投げ首していたところだと。

すると、叔父さんが「医者の見料は私が出します」と進言し、源庵先生を呼びに長屋の者が走った。若旦那は居ても立っても居られず、大家宅に土足で上がり、「俺は八百屋だ!お前にやったわけじゃない!」。薬缶で大家の頭をポカン!ポカン!と殴って…。後日、若旦那の勘当が揺れるという「情けは人の為ならず」の一席と締めた。

50分長講。これだけ、じっくり、丁寧に演じていただくと、この「唐茄子屋政談」の本来の魅力が浮かび上がる。贅沢を言うようだが、端折ると「情」が伝わらない。叔父さんの情、田原町の名乗らなかった男の情、誓願寺店の店子の情、そして若旦那、徳次郎の情。いやぁ、堪能しました、馬石師匠、ありがとうございました。