「イヌビト」 今の状況下だからこそ、人と人とが触れ合い、対峙することの貴重さを

新国立劇場で「イヌビト」を観ました。(2020・08・13)

コロナ禍の中、心に刺さる芝居だった。この今の社会状況になる前に本は書かれた。しかし、世の中が変わり、我々の暮らしや意識が変わってしまった。それを踏まえて、長塚圭史が書き直した作品である。例年、新国立劇場では夏休みに大人と子供が一緒に楽しめる芝居を上演してきた。2012年「音のいない世界で」、15年と17年の「かがみのかなたはたなかのなかに」は僕も観ているが、脚本・演出の長塚圭史、振付・出演の近藤良平、首藤康之、松たか子の四人組がコアであるのは今回も変わっていない。

夏休み、子供も、というとファンタジーでハッピーな芝居を想像するかもしれないが、全く違って、むしろ大人が「うーん」と考えさせられる芝居にいつも仕上がっていて、果たして今回もそうであった。プログラムから(ものがたり)を抜粋する。

どこかの国の、どこかの町。タナカ一家は愛犬とともに、シンプルライフを堪能しようとこの町に引っ越してきました。ところが町中はどこか殺伐としています。誰もがマスクで口元を隠し、ソーシャルディスタンスを保ちながらの暮らし。この町にはイヌビト病の感染が広まっていたのです。今を去ること30年前、この町では狂犬病が大発生、ついにヒトはイヌを飼うことを禁じられ、この町からイヌはすっかりいなくなりました。しかし、今度はイヌビト病が大流行、さらにヒトからヒトへの感染もはじまって…

そして(ごりょうしんのみなさまへ)と題し、長塚圭史は上演の3カ月ほど前に「イヌビト」関係者に宛てた手紙を(中略)で掲載している。以下、抜粋。

「イヌビト」はもともと町にオオカミ男ならぬイヌビトが増えていく、つまり感染の物語でありました。ところが現実世界で感染の脅威と実害がここまで広がると、平時に想像していた背景や進行では立ち行かなくなってしまっていると思い始めました。また世界が感染に苦しむ中で、感染にまつわる物語を書くことへの抵抗も強く、遅々として思考は進みませんでした。また、果たしてソーシャルディスタンスをどう守れるのか。接触・接近を避けながら稽古、本番を進めていくことになるかのだとしたら、どのように書き進めれば良いのか。そして何より子どもたちが劇場に来るということが現実的に有り得るのかどうか。

ただ私はこの数日で思考を切り替えることに成功しました。「イヌビト」のプロットを大幅改定して進めようと決意しました。ソーシャルディスタンスばりばりでお届けしようと。

きっかけは一人の少年の声でした。私が8月の上演がどうなるかわからず、また予定通りの物語を書く気にもなれずにいることを俳優でもある友人に嘆いていると、友人は大いに同情してくれました。やはり8月の上演は演劇人であれば実現を夢見るけれど、市井の人々のとってみればずっと現実味がないかもしれないと。彼はその場で家族に問いかけてくれました。8月に子ども向けの芝居があるけれど行きたいかと。6歳の息子は「行く!」と即答しました。その「行く!」の力は強烈でした。電話口に響いたこの「行く!」を何度も脳の中で愛でました。停滞しそうな時にはこの「行く!」を反芻するのです。私はもうこの一人の少年のためにでも作ろう。ルイ・パスツールが現れなかった仮想の世界を作って、思い切り人間に悪態をついてやろうと思っています。以上、抜粋。

一人の少年の「行く!」という一言が背中を押した。作品は保養地開発が行われる美しい森と、そこに潜んで人々を襲う狼≒イヌビトという当初の設定から大きく変わり、イヌビトの存在はそのままに奇病が蔓延する町が舞台になった。新型コロナウイルス禍を受けてのことだ。プログラムの「長塚圭史(作・演出・出演)×小川絵梨子(芸術監督)」で、長塚さんはこう述べている。以下、抜粋。

感染症が起こる設定だったので、むしろ振り切って、今の状況下だからこそ人と人とが触れ合い、対峙することの貴重さを織り込みたいと進めました。(中略)前の設定から引き継いでいるのが「人間が忘れる生き物」という部分です。流行っているからと大型犬を飼い、面倒見切れなくなっては飼育を放棄する人間がたくさんいたという過去の事例と同様、今回のウイルス蔓延のことも、将来的に克服できた後は、きっと忘れてしまう。東日本大震災など、いまだ解決していない大きな災禍ですら、当事者以外は忘れたに等しい現状を見れば想像に難くないですよね。「今」を描く戯曲にしたいと思った。以上、抜粋。

芝居の中で印象に残った台詞を3つ。

「マスクは、私は噛みませんよ、というエチケットとも言われています」

「自分が感染しているか夜までわからない。だからみんなビクビクしています。自分がうつされることも、誰かにうつすことも」

「噛まれても、忘れてしまうもんだね」

新型コロナウイルスについて、この社会状況が終息してから「あのときから、こんなことを学んだ」と演劇や小説やその他のエンターテインメントに昇華することもあるだろう。だが、その禍の真っ只中において、一石を投じる作品を作り上げた長塚圭史さんはじめ、出演者、スタッフのみなさんに敬意を表したい。特に、2時間のお芝居の大半のセリフを担当した語り部兼害獣駆除の専門家を演じた松たか子さんの高いポテンシャルを改めて確認できたことは、昔からのファンである僕にとって嬉しいことであった。