三遊亭白鳥「火焔太鼓」 志ん朝が死んでも落語の灯は消えず。皆が「自分の落語」と格闘した。

晴れ豆TVで「代官山夜咄 三遊亭白鳥2020」を観ました。(2020・07・24)

古今亭志ん朝師匠が亡くなったのは2001年10月1日。もう、20年近くになるのか、と思うと感慨深い。この日、白鳥師匠は一席目に「火焔太鼓」を披露した。もちろん、白鳥ワールドの「火焔太鼓」は志ん朝師匠のそれとはまるで面白さが違う荒唐無稽さで、それを楽しんでいる自分がいるのが不思議な気持ちである。二席目の「地下鉄親子」を演じ終わったあと、「BURRN」編集長で落語評論家の広瀬和生さんとの対談も、志ん朝師匠の思い出から入った。

白鳥師匠の前座時代、「三遊亭にいがた」、そう、まだ漢字の新潟にもなっていない時代である。寄席の根多帳に演目を書くとき、原則、前座は調べたり、誰かに訊いたりしてはいけなくて、自力で書く。しかし、ほとんど落語の知識がないままに入門した白鳥師匠はそれがつらかった。先代小さん師匠は、孫の九太郎(現・花緑師匠)が白鳥師匠と仲良くしてくれていたので、「いつでも訊きな」と優しかった。そして、志ん朝師匠。「お前だけは『落語事典』を使うのを許す」と言ってくれたそうだ。

志ん朝師匠は新潟時代に落語を聴いて、「お前の新作は全くわからないよ。古典は俺の時代で終わるかもしれないな。今の人には落語をわからなくなっちゃうのでは?」と危惧していたという。志ん朝師匠は寄席の興行で主任をとったときの打ち上げに前座は呼ばないというこだわりがあったそうだ。だけど、「お前だけは来い」と可愛がられた。それも、下座ではなく、志ん朝師匠の真ん前に座らせられた。「同じ落語家として見ていなかったんでしょうね。珍獣みたいな」と白鳥師匠は分析した。貧乏なのを見かねて「にいがた君にコートを買ってあげる会」と称して募金することを志ん朝師匠の声がけでやったこともあるとか。

二ツ目勉強会では、カミシモの概念も知らなかった新潟に、「歌舞伎の花道があるだろう」と、おしぼりを花道に見立てて丁寧に教えてくれた。高座を大きく使え、と言って、目線の使い方も指導してくれた。「だって、そんなこと、師匠・圓丈は教えてくれなかったから」。歌舞伎も観たことがないので、「七段目」も「蛙茶番」もよくわからなかったそうだ。でもね、権太楼師匠も「カマドはわかるが、へっついはわからなかった」と言っているように、なんとなくボンヤリとわかっていれば、落語は成立するのだとも。

白鳥師匠の落語論は鋭い。要は人間の「欲」ではないですか。貧乏から抜け出したい。女にもてたい。談志師匠が言っていた人間の業。欲望。それを描けばいいのではないか。雲助師匠が「現代の圓朝かと、一瞬だけ思った」そう。インターネットがこれだけ浸透すると、だれもが落語を聴ける。そのときの第一印象はななにか。「古典落語って、みんな似ているな」。そこにゼロから作った落語で笑ったり、感動させることが新作にはできる。昔は「新作なんて」と馬鹿にされたが、そうじゃない!ということが、段々と認められてきたのではないか、と。

古典に演出をつける=自分の色に染める。これは権太楼師匠もさん喬師匠もやっていることだし、一之輔師匠や白酒師匠もそれをやって人気者になった。志ん朝師匠が生前に「『火焔太鼓』は俺の親父と俺の二代で作りあげたもの。自分の落語なんだ」と言っていたそうだ。昭和の名人たちが確立した落語をそのまま演っても、それは大衆には「古典はみんな同じ」と思われてしまってもしょうがないこと。一之輔師匠がYouTubeで落語を配信をしたが、知らない人は「ふざけているのでは」「あんなに崩して」と言った。しかし、あの配信の高座は「普段の寄席やホール落語で普通に演っていること」であり、それが受けているのだから、それをちゃんと認識してほしいとも。

文菊師匠はいいね、と広瀬さんも白鳥師匠もおっしゃっていた。あのクセになる個性がいいと。あれを見て「気持ち悪い」と思う人がいるかもしれないが、あれは、わざと「気持ち悪いキャラ」を作りあげたのである。彼も「どうしたら売れるか」を悩んだ挙句、覚悟を決めて「普通に上手い人」から脱却し、変貌した。

亡くなった喜多八師匠は「病弱キャラ」で売れたが、あれも作ったキャラ。真打になっても売れない時代が続き、それはプライドばかり高く持って、「臭く演っちゃいけない」と思っているからだと気づいた。当代の文楽師匠に「お前は誰を相手に落語をしているんだ?客を喜ばせるためじゃないのか?」とアドバイスをもらい、「キタナヅカ」や「病弱キャラ」が生まれたと。

「化ける」という言葉があるが、それは自分なりに「あるべき姿」を考え、そこに突き進むことができて成立する。喬太郎師匠もさん喬師匠の一番弟子が新作を演ってるよ、とどれだけ叩かれたか。「裏切り者」とまで。それが売れて、古典、新作自由自在に操って、そうなったら自分の好きなことができる。2001年に志ん朝師匠が亡くなり、「落語は終わった」とすら言われたが、それじゃぁ、俺たちはどうすればいいんだ?と考えた。そこまでに、喬太郎、文蔵、たい平、白鳥、みんな素地を作っていた。そして、これまでの落語の価値観を壊し、新しい時代を作らなくちゃと頑張ったから、今がある。

それまで「邪道」と言われた新作落語の世界の重石が取れた。それまでに、志ん朝師匠でしか笑わない客に対して、権太楼師匠が闘い続けた下地もあった。古典マニア的な親父が消えた。白鳥師匠は大昔、池袋演芸場で「お前なんか、認めないぞ!」と言われたそうだ。そういうお客様がほとんどいなくなった。楽しめばいいのであって、マニアックすぎるのはよくない。落語研究会で談志師匠の高座だけ席を外す客がいた。アンチ談志。それが開放的になった。

立川流は認めないという人に、あなたは実際に見たことがあるのですか?と言いたかった。今、談春しか見ないという客が、白鳥を知り、面白いと思う。色々なお客さんがいて然るべき。それはSWAや大銀座落語祭の功績大で、それが「志ん朝がいない時代」のはじまりだった、と広瀬さん。

白鳥師匠にとっての志ん朝師匠。上手い。流れるようなリズムがある。唄みたい。絶対につっかえない。天性のものなんでしょうね、と言ったら「稽古しているからだ!」と怒られた。親父の志ん生はフラの人だった、だから文楽を目指した。高座にムラがない。いつも良い高座。談志には「あのときの『芝浜』」というのがあるが、それがない。駄目な高座がない。だから伝説になりにくいのかも。志ん朝・小三治二人会に前座で白鳥と彦いちが呼ばれた。ピリピリしていた。志ん朝師匠に「お前は近づくな!」と言われた。あの志ん朝師匠でさえ、大阪の客は最初は認めてくれなかった。3年目でようやく受け入れてくれた。闘う人でもあったのだ。

白鳥師匠の思い出で、「お前は誰が喋っているのか、わからない」と言われた。演じ分け。そこで考えたのが、動物モノ。「任侠流れの豚次伝」の根底にはそれがある!ブヒーッ!豚になりきる。

「火焔太鼓」は宝みたいな噺だと志ん朝師匠が言っていた。勝手に演っている奴が許せないとも。その一方で、「半鐘はいけないよ。オジャンになるから」のサゲがわからなくなるかもと危惧もあったという。「やれるもんなら、やってみろ!」と言っていた志ん朝師匠は、今、白鳥版火焔太鼓を聴いて、何を思うだろうか。