柳家小三治「小言念仏」と「粗忽長屋」 高座百遍とは何か、を教えてくれた
よみうりホールで「柳家小三治 夏の会」を観ました。(2020・08・10)
小三治師匠は「粗忽長屋」を終えて、深々と頭を下げてお辞儀をしたあと、客席に向かって呼びかけた。「皆さん、今、コロナと戦っている方が大勢います。医師や看護師などの医療関係者の方々が足りない病院で一所懸命に働いていることを思うと、涙が出てきます」「私は普段はマスクをしています。きょうもマスクをして出てきたかったくらいです。それはうつりたくないからではなく、うつしたくないからです。そんなことしか私にはできない」「そこで、私からのお願いです。今、闘っている人たちに励ましの拍手を送ってください」。そう言って、定員の半数以下に制限されたおよそ500人の観客に促すと、会場いっぱいに大きな拍手が鳴り響いた。人間・小三治を観ることができた喜びにあふれた。
13時開演の昼の部、中入り後に上がった小三治師匠は開口一番、「正座できるかなぁ」と言いながら、座布団に座った。「出てくるまで不安でした。(お客様も)心配だったでしょ?」。「生身の人間ですからね。芝居だったら、相手役がいるから、多少セリフに詰まっても、相手が助けてくれる。落語はねぇ。さぁ、皆さんとどんな風に始めましょうか」。そう言って、先月に横浜にぎわい座で開催された独演会のことを話し出した。
久しぶりだったので、どうしたらいいか、わからず、客席にリクエストを募ったそうだ。中には「文七元結」なんて声も聞こえ、「冗談じゃない。もう筋すらも忘れました」と言って、「青菜」という声が上がったので、思わず反応して、噺をはじめたという。ところがセリフが出てこない。ほっとけば出てきたセリフが出てこない。(登場人物が)喋り出さない。「ごめんなさい」と言って違う噺に(友人によると「粗忽長屋」に変えたそうだ)。どうして「青菜」に反応したのか。現在の上皇后美智子さまが師匠の落語を聴きたいと宮内庁から打診が数年前にあり、国立演芸場で聴いていただく準備をしていたが、「突然公務か何かでしょう」キャンセルになった。でもお聴きになりたいという。何度か準備しては取り止めということが続き、「じゃぁ、皇居にきてください」ということになった。それで「皇居のご自宅」まで伺ったときに、部屋から見えた綺麗に手入れをされたお庭を見て、「青菜」を思いつき、ご披露した。そんな思い出のある噺だったから、と言って「うっかり演るもんじゃない!」。
美智子さまにお会いできたことが嬉しかった。好きで会いたかった人は藤田まことと寅さん(渥美清という「名前が出てこないので寅さんにします」と)。藤田まことさんは会えなかった。「私が言えば会ってくれるわよ」と言う方がいたが、「そういうのは好きじゃない」と断ったそうだ。寅さんとは、「やなぎ句会」のメンバーの永六輔や和田誠、そのカミサン(平野レミ)、扇橋と一緒に常磐線に乗って茨城に鰻を食べに行った。正確に言うと、食べられなかったですがね。評判の鰻屋と聞いて尋ねたのに、「蒸して焼いたり」する店じゃなくて、「(冷凍した鰻)を解凍して焼くんだと店員が言ったので、ガッカリして食わずに引き返したのだとか。そのときも「寅さんは一言も喋らない人だった」。
そんな思い出を徒然なるままに喋っていると、ホールの制限時間が近づいてしまって、「じゃぁ、『小言念仏』ですかね。私の中では二番人気なんだ。一番は『文七元結』かな?」ととぼけて、いざ始めようとすると、「あれ?どこから入るんだっけ?」。「生きているということですか。私は(落語を)情熱だけで演っている。だから、出てこない。なぜセリフで覚える噺家にならなかったんだろう?私は順序立てて噺をやらない。自分の中でかき回すやり方だから」。
そして、頭の中を回転させているであろう、「南無阿弥陀仏」を唱えながら、扇子で高座を叩いてリズムを取りながら、「何日もやっていないと、こんなものなのか」「眠っていてもできると思っていた」「こんなはずじゃなかった」といった言葉を挟み込んだ。もちろん、まったくセリフが出てこなかったわけじゃなくて、「仏壇の水、換えろ」とか「子ども学校に行かせろ」とか「赤ん坊が泣いているぞ」とか断片的には出てくるのだがつながらない。「飯の焦げ臭いにおいがするぞ・・・隣から?隣に行って教えてやれ・・・お隣とは仲が悪いから嫌だ?」・・・「おかしい、こんなセリフ、なかった」「こんなはずじゃなかった!」。
「弟子は偉いな。南無阿弥陀仏、何も出てこない。このまま下がりゃあしませんよ・・・南無阿弥陀仏、見てろ、今に!何か月も言葉を遮られるとは、こういうことなのか。みっともない姿をお客さんにさらしてしまった」と言って、噺を諦めた。「19で噺家になりました。今、80です。60年やってるわけです。これを機会にやめるんじゃないか?夜の部もある?知らねーよ!」いや、コロナ禍で何か月もほとんど高座にあがっていないと、名人・小三治の「小言念仏」も天下泰平だった時代の武士の刀のようになかなか抜けなくなってしまうものなのか。
でも、小三治師匠のすごいのは、気を取り直して、多分この会に来るときに決めていたのであろう、冒頭に書いた「コロナと闘っている方たちへの励ましの拍手」を昼の部の最後でもお願いし、医療関係者たちに敬意と感謝を表したことだ。噺家である前に、人間であれ、という小三治師匠の思いを感じた。
で、夜の部である。高座に上がると、マクラは殆んど振らずに、「粗忽長屋」に入った。ポンポンと、昼の部が嘘のように、噺が流れる。先代・小さんの十八番の噺が小三治流の味わいを醸し出して、とても良かった。
「気まずいんだろう、むこう向いてるよ」「そっちから見てるからですよ。こっちから見て下さい」。「あの野郎、うまいこと言って持っていきやがった、なんて痛くない腹を探られるのは嫌だな。そうだ、当人連れてきましょう」。「昨夜から倒れてる?そういう野郎なんです。今朝も一緒に出掛けないかと誘ったら、心持ちが悪いからよすなんて言ってました」。「ここに倒れて、ここにいるんですけど」「本当の当人は別にいる!」。「お前は浅草で死んでるよ」「でも、死んだ心持ちにならないなぁ」。「お前、昨夜何してた?」「一杯やって、観音様の前までは覚えている」「そーれ見やがれ。それが何よりの証拠だ。冷たくなって死んだのも知らずに帰ってきたろ!」。
「今さら出て行って、これが私の死骸です、なんてきまりが悪い」「いや、むこうだって当人に来られたら言い訳が立たないよ」。「てめえのモノを取りにきたんだ。遠慮することはない」。「世話になったおじさんだ。よく御礼申し上げろ」「すいません。ちっとも知らなくて。ここで倒れていたそうで」。「なまじ死に目に会いたくないなぁ・・・あー!これはオレだ!やい、オレめ!あさましい姿になりやがって!」。
まさに昼の部で小三治師匠がおっしゃっていた、「セリフを覚えるのではなく、順序立てて噺をやるのではなく、自分の中でかき回す」、そんな高座が繰り広げられた「粗忽長屋」だった。高座百遍というけれど、コロナ禍で高座に上がれない辛さは、若手もそうだが、トップの小三治師匠でも同じこと。その言葉の重みを教えてくれた。