柳家権太楼「鼠穴」 天国の今野徹さんとの約束には続編がある。落語への飽くなき執念に最敬礼
日本橋社会教育会館で「権太楼 人形町スペシャル」を観ました。(2020・08・08)
開口一番、「よく来てくださいました。同窓会みたいだな」と、権太楼師匠は言った。僕自身、鈴本の初席で「代書屋」を聴いて以来、この8月まで師匠のナマの高座には接することができず、8月1日にCOREDO落語会で「猫の災難」を聴いたが、コロナ禍によって実に7カ月も空いてしまっていた。山口下関での落語会が3月に予定されていたが、やっぱりキャンセル。でも、落語会を主催しているお医者様は、恒例になっている「終演して、一泊して、美味しいふぐ料理を食べる」というのだけやりに、いらっしゃいませんか?と誘ってくださった。当然スケジュールは空いているから、「行きます!」と言ったら、下関のふぐ料理屋さんから「東京のお客様は申し訳ございませんが、来ないでほしい」と言われ、諦めた。ふぐの毒より、コロナの方がよっぽど怖いのね、と師匠。
一席目の「宿屋の仇討」を終えて、中入り。で、二席目のあがった権太楼師匠は「いや、雑だった。得意ネタのつもりだったが、駄目ですね、しばらく演ってないと・・・失敗は次のバネにする。反省です・・・なんだか、昔池袋でやっていた(日曜朝の)おさらい会みたいだね」。で、先代圓歌師匠の年齢詐称エピソードで「江戸っ子は嘘をついてでも、見栄をはる。その点、田舎の人はお金を大事に使う」と振って、「竹次郎さまという方がお見えです」と「鼠穴」へ。
これが、すごかった!この噺はずっと自分のニンではないと演らなかった噺だったが、落語研究会の今野徹プロデューサーからずっと口説かれていて、「いつか、やれるように自分で納得ができるようになったら、やります」と約束をしていた。それが今野プロデューサーが急逝してしまい、去年12月の落語研究会でかけることを目標に、自分で納得のいく噺に作り直し、去年の前半から色々な会でかけて試行錯誤を繰り返していた。僕も、去年8月の「ザ・柳家権太楼」、9月の三鷹での独演会で聴き、他の噺家さんと大幅に演出を変えた「鼠穴」を披露し、「これはすごい」と年齢に負けない、そのパワフルな情熱に驚いた。
天国の今野プロデューサーに捧げる「鼠穴」は12月の落語研究会で披露されたわけだが、残念僕自身は聴けなかった。で、今回の「鼠穴」である。いやぁ、ビックリした。僕が最後に聴いた三鷹の独演会よりもさらに改変が加えられ、噺の力というんだろうか、その力にグイグイと引き寄せられた。すごい。何よりも、竹次郎が、たった3文から出世し、蔵を3つも持つ大店の主人になる過程の説得力が半端じゃない。なるほど、こうやって、努力したから、成功があったんだね、と、何度も頷いている自分がいた。サンダラボッチを貰ってサシを作り、草鞋を作り、寝食を忘れて朝から深夜まで、納豆売りから鍋焼きうどんまで、なんでもやって稼いだら、と言葉では簡単に片づけられるけれど、そういうやり方でなく、きちんと、周囲の人情にも支えられながら成功する有り様に、ウン、ウンと心で答えていた。
兄から渡された元金はたったの3文。道端で途方に暮れている竹次郎の様子を見かねた男が事情を訊いて、自分の住む長屋の大家さんのところへ話しにいく。大家さんは人情に厚い人で、ここに住まいなさい、と物置を貸す。そこで竹次郎はサンダラボッチからサシ、さらにワラジを作り、せっせと小銭を貯める。この発端からして、すごいではないか。その上、竹次郎は稼いだ銭をかき集め、「店賃です」と持って行くと、大家は「物置の店賃は要らない。じゃぁ、私が親代わりということで身請けして、番所に届けてあげよう。そうしたら、手足を投げ出して寝られる空き店に住むことができる」と、気遣ってくれるのだ。
そのあとも、いかにも竹次郎が努力家だということ、そして、その姿を見て、近所の人、さらには町内どころか隣町から隣町へと噂が広がるという展開。これには合点がいく。深川の香具師の亀蔵が商売のバックアップをしたいと進言にきたり、近所のおかみさん連中からも評判がいいから、おみつという素敵な女性を女房として世話してくれ、お花という娘にも恵まれる。そして、蛤町の質屋が主人が後継者を探しているという有難い話を持ってきて、その質屋の旦那に収まるのだ。そこには優秀な番頭がいて、商売も万々歳。なるほど、これは出世譚としてストーリーがしっかりしている。その上、人間はコツコツと努力をすると、みんなが見ていて、評判が立つし、銭金よりも信用というものが財産になるというメッセージが伝わってくる。
竹次郎は3文しか元金をくれなかった兄については誰にも話さず、「私は天涯孤独の身」で貫き通したところもすごい。だが、深川の元締めの亀蔵に、そのことは10年経ったところでばれる。「兄さんのところに御礼に言ったらどうだ」。感謝の気持ちで血のつながった兄を訪ねる動機も、この方が自然だ。そして、久しぶりの兄弟の再会。竹次郎の努力を讃える。そして、酒を酌み交わし、火事が怖いから帰るという竹次郎を引き留めて、一晩泊まることに。その後、深川蛤町で火事がおきるのは同じ。
3つの蔵も焼け落ち、女房おみつの夫婦巾着で仕事を再開するが、うまくいかず、女房は病気で死んでしまう。わずかに残った金を最後まで忠義で居残ってくれた番頭に渡し、別れを告げ、竹次郎と娘・花は兄を頼って訪ねるが。ここからが、またすごい。あくまで兄は悪者として描く。罵りかたが半端ない。「子どもをダシに金を借りようなんて、乞食のすること」「お前は負け犬。そんな奴に貸す金なんかない」「人は裏切る。金は裏切らない。だから、俺は女房を持たなかったんだ」。泥水を飲むが如く働いて、他人さまに優しくして、それで出世した竹次郎にとって、財産は金ではなく、「人」だ。その人の温情、すなわち人情がこのテーマである。このテーマを、兄弟の異なる運命を描くことで、実に見事に伝えている。
またまた途方に暮れる。今度は竹次郎独りではない。娘の花と二人。竹次郎は首を括りたい。だが、お花を道連れにできない。お花が言う。「おっかあのところへ一緒にいこう」。抱き合う二人。竹次郎と花は江戸の街へと消えていくのでありました、で幕となった。えー!夢オチじゃないの!画期的すぎる!と思ったら、幕を再びあげさせた権太楼師匠は「暗すぎます!元に戻します!」。
いやぁー、今野プロデューサーとの約束はまだ果たしていないという思いが師匠にはあるのかもしれない。去年の年末の「鼠穴」は最終回答ではなかったのだ。通常の「鼠穴」は、夢にして、そこに兄弟愛を感じさせ、最初に冷たくしたのは愛の鞭だったということを強調する演出。それを、最後まで兄を悪者にする手法もあるのかもしれない・・・と、その後も僕は考えた。
言えることは、権太楼師匠の落語に対する愛情が深さと探求心だ。先日のブログで、さん喬師匠の「たちきり」でも書いたが、紫綬褒章を受賞したこうしたベテランの師匠たちが、いつまでも向上心溢れる模索をつづけていく限り、落語は廃れない。この後に続く中堅も見習う。そして、若手も。そういう現場に立ち会える、我々演芸ファンは幸せだと思う。