プライドとナイーヴを両方含有したガラス細工のように、その才能は輝いて 柳家わさび
内幸町ホールで「わさびの第二診察室」を観ました。(2020・08・07)
柳家わさび師匠は「自分の落語」に対する確固たる自信をお持ちだと僕は思っている。プライドを持って高座に上がっていると僕は察している。それと同時に、物凄くナイーヴな側面を持っていて、お客様の反応を大変大切にしていて、自分の高座の反応にどんな感想を持ったのか、SNSなどでチェックを豆にしている。わかりやすい例だと、昔の坊主頭が良かった、いやおかっぱ頭が良い、いやいやオールバックがいいじゃいないか、という髪型の好みまで。半分以上は洒落だと思うけど、気にして、実際に今回も仲入り前はおかっぱ、後半はオールバックで登場した。ガラス細工のように繊細だが、キラキラと才能が輝いているわさび師匠が大好きだ。
一席目の「配信息子」は10年以上続けている三題噺作りから生まれた傑作。「領域」「ご贔屓」「マイケル・ジャクソン」。小学生の将来なりたい職業ナンバー1がユーチューバーになるという、僕からすると追いつけないくらいにデジタルが発達した現代社会がくっきりと浮かび上がる名作だと思う。僕ら昭和の人間だって子ども時代にクラスの人気者になりたいと思ったし、ブラウン管の向こうのアイドルに憧れた。それが、実際にデジタルの発達によってクラスの人気者どころか、世界の有名人に一躍なれてしまうというのには驚きだ。
パソコンに向かって、「ケンジTVでーす!よろしく!」「きょうからスタートということで、3日間連続生配信やっちゃいます!」と叫ぶ中学生の気持ちはアナログ世代の僕らにもわかる。チャンネル登録者とか、視聴者とかの数に一喜一憂するケンジが夏休みの宿題もほったらかしにして夢中になるのを、心配する両親の気持ちもよーくわかる。そこを「ダメだ!」と頭ごなしに禁止するのではなく、「贔屓屋」と称して視聴者数をアップさせる業者を装い、視聴者数が増えれば、それだけ誹謗中傷も伴ってくるのだと暗に諭す両親が実に画期的。
それはそのまま現代社会に通じるメッセージにもなっていて、人気タレントになるには、アンチコメントが来て傷つく覚悟も必要だと教えている。また、数を稼ぎたいがために、「迷惑ユーチューバー」になって、過激な配信をすることの危険性も伝えている。「マイケル・ジャクソン」だってコツコツ地道に努力したから、あれだけ世界的な人気者になれたんだ、という父親の言葉は、そのままネットに夢中になる若い世代に説得力のあるものになっている気がする。いみじくも、コロナ禍で落語も配信なくしては考えられない時代になった。その意味でも、若者だけでなく、エンターテインメントやジャーナリズムの世界におけるリテラシーを考える噺になっているなぁと。師匠、大袈裟すぎますか?
二席目の「茗荷宿」。桃月庵白酒師匠から稽古をつけてもらったのだと思う。ミョウガ尽くしの料理も、わさび師匠らしいアレンジがあるし、自分たちが宿屋を営んでいる自覚すらない老夫婦のキャラにもわさび師匠らしさが感じられて愉しい。喬太郎師匠の「純情日記 横浜編」や、百栄師匠の「露出さん」にも言えることだけど、わさび師匠は作者である先輩の幹を大切にしながら、そこに自分らしさをアレンジメントすることで、いつかは「あれ?この新作は自作じゃないんだ?」と言う人が現れるくらいになるような気がする。喬太郎作「寿司屋水滸伝」を百栄師匠が頻繁にかけて「自分の落語」にしたように。
最後は「佐々木政談」。マクラで、自分はどうしてもエゴサーチをしてしまう、アンケート用紙なども保存するタイプの人間だ、と振って、例えば談志師匠のようにカリスマ的存在になれればいいでしょうね、と。お笑い番組の最後で、サプライズ的に談志師匠が現れ、「テツandトモ、いいです」みたいな発言をするみたいな演出がよくあったと。懐かしいですね。江戸時代の奉行なんて存在はカリスマ性があったのでしょうと、噺にはいった。
わさび師匠は四郎吉はじめ、お奉行ごっこをしている子供たちを演じるのが実にうまくて、カワイイと生意気が同居しているのが、なんとも憎めなくていい。結構、辛辣なことを佐々木信濃守ほか与力たちに発言しているのだけれど、すごい度胸だけれど、カッとなるような悪口にはならず、むしろ、「は、はぁー」と赤面してしまうような感じがとてもよい。と同時に、同道した大家や町役人がハラハラしている様子も愉しい。頭の回転が速くても、こいつは好きになれないというタイプの賢さとは違うものが四郎吉にあったからこそ、それを見抜いて、佐々木信濃守も、桶屋の息子を将来召し抱えたいと言ったのだろう。そんな説得力のある、わさび師匠の得意ネタを満喫しました!