大相撲7月場所が終わって 「ガチンコ大関」魁傑に思いを馳せた(下)
テレビ中継で大相撲7月場所千穐楽を観ました。(2020・08・02)
きのう書いた、ガチンコ大関・魁傑の思い出の続きです。
75年秋場所、九州場所と連続で負け越した魁傑は大関をわずか5場所で陥落してしまったが、けして諦めたりすることはなかった。それが、76年秋場所に前頭4枚目で平幕優勝を果たし、翌77年春場所に大関返り咲きを果たすことにつながった。その間、魁傑らしいこだわりのエピソードがある。再び、80年刊行の北出清五郎著「相撲アナ一代 大相撲との日々」(日刊スポーツ出版社)からの抜粋。
相撲のテレビ放送のなかに殊勲力士のインタビューがある。原則として関脇以下の力士が横綱、大関を倒した場合にインタビュールームに来てもらって話を聞くことにしている。大相撲の末に勝った時などは、まだお相撲さんが息をはずませているので、よく話を聞けないこともあるが、そういうときは、ハアハアという息づかいの荒さと表情を見ていただくだけでも、横綱、大関を倒した喜びを汲みとっていただけるのではないかと思っている。(中略)
ところで、この殊勲インタビューにどうしても出てくれないお相撲さんがいた。その人の名は魁傑。皆さんは「あの魁傑がどうして」と思われるかもしれないが、しかしこれにはちゃんとした理由がある。大関になる前の魁傑は快くインタビューに応じてくれたが、大関を落ちてから出なくなったのだ。彼は「一度、大関に上がったものが」というプライドと責任感から出たくないという。その気持ちは理解できるので、彼が大関を倒してもこちらから遠慮していたが、横綱を倒したときにどうするかで、「北の湖ならインタビューしてもいいんじゃないか」「いや、元大関だからやっぱり遠慮すべきだ」とスタッフ間で意見が分かれ、結局「北の湖に勝ったらインタビューを頼んでみよう」ということになった。そして、ある場所で実際に魁傑は北の湖に勝ったのだが、やはりインタビューは勘弁してください、というのでできなかった。以上、抜粋。
また、大関に返り咲きを果たしたときのエピソードも、魁傑らしい。77年刊行、北出清五郎著「大相撲への招待」(広済堂)から抜粋。
再大関の彼にも伝達の使者が立った。大関として二度の使者を迎えたのは彼がはじめてである。再大関として使者の口上をうけた彼は「謹んでお受けします」とだけこたえた。そのあとインタビューで「ふつうなら、大関の地位を辱めないように…というところだけど、俺は一度汚しちゃったんだから何も言えなかったよ」と大いにテレていた。以上、抜粋。
しかし、返り咲いた大関も、わずか在位4場所で陥落してしまう。通算9場所の大関だった。引退する79年初場所まで土俵にあがり続けたが、そのなかで、強烈に印象に残っている一番がある、78年春場所7日目、旭国との大熱戦だ。4分半の相撲で決着がつかず、水入り。再開後も3分半たっても勝負がつかない。よって、二番後取り直し。結びの一番の北の湖―青葉山が終わってからの対戦となった。それも2分半の大相撲の末、魁傑が勝った。合計10分以上の大熱戦。観ている側も疲れた。相撲放送が終わったのが、18時25分だった。
僕がこんな熱戦を見たのは74年秋場所11日目、三重ノ海―二子岳の一番以来。このときは二番後取り直しでも決着がつかず、引き分けとなった。その後、「引き分け」は出ていない。魁傑―旭国の一番も引き分けになるのでは…と、手に汗握りテレビ観戦していたのを覚えている。
79年初場所、魁傑は引退。放駒親方として横綱・大乃国を育てた。小学校時代のS君との因縁の北の湖と魁傑のライバル物語は、皮肉にも引退後に続いた。出羽の海一門だった北の湖親方はエリートとして出世。引退して3年後の88年監事となり審判部副部長、96年理事昇格、98年事業部長(副理事長的存在)、02年に理事長就任。放駒親方もインテリであることから事務処理能力の評価が高く、協会運営で手腕発揮した。92年役員待遇として事業副部長や広報副部長を歴任、相撲茶屋中心でなかなか手に入らなかったチケットのインターネット販売に協会がいち早く着手したのも、放駒の功績と言われている。06年理事昇格。02年に理事長に就任した北の湖だが、弟子の大麻問題の責任をとって08年に武蔵川親方と交代。しかし、野球賭博事件がおきて、武蔵川理事長も退任。クリーンイメージのある放駒親方が10年に理事長に就任した。年寄株制度の透明化を狙ったがうまくいかなかったは惜しまれる。で、八百長問題がおきて、その処理が一段落したところで退任。もう一度、12年から北の湖が理事長に復帰した。放駒は13年に定年退職後、14年5月に逝去。北の湖はそのあとを追うかのように在任中の15年11月に逝去した。
僕は88年、名古屋に初任した。スポーツを仕切っていたベテランのSプロデューサーが、僕が相撲好きなのを知って、7月の名古屋場所は愛知県体育館からの中継の手伝いをさせてくれた。13日目のみ支度部屋の撮影取材が許されていたので、優勝候補の様子をロケして夜のニュース番組に短く編集して放送したり、千秋楽翌朝の「モーニングワイド」では優勝力士の部屋に中継車で行って、中継インタビューを放送したりした。90年旭富士(大島部屋)、91年琴冨士(佐渡ケ嶽部屋)はよく覚えている。名古屋局には必ずベテランの相撲担当アナウンサーが着任するしきたりになっていて、向坂松彦、内藤勝人の両アナウンサーには可愛がってもらった。
ちなみに、88年はソウルオリンピック開催の年で、名古屋が立候補して当選確実と言われながら敗れた因縁があった。また、中日ドラゴンズが星野仙一監督で6年ぶりのリーグ優勝を果たし、NHK特集「勝利へのさい配~ベンチの中日・星野監督」を先輩たちが制作しているのを横目で見ながら勉強していた。優勝を決めた夜は名古屋の街のにぎわいを中継したのも今は昔の物語。全ていまとなっては懐かしい思い出である。
話が相当横道に逸れたが、ガチンコでクリーンと言われた大関・魁傑を振り返り、自分の信念を頑なに守り続けることの大切さが、今の僕の心に刻まれていることだけは確かだ。