大相撲7月場所が終わって 「ガチンコ大関」魁傑に思いを馳せた(上)

テレビ中継で大相撲7月場所千穐楽を観ました。(2020・08・02)

幕尻の照ノ富士が1敗で追う御嶽海を豪快に寄り切り、復活優勝を果たした。ケガで大関から序二段まで転落してどん底から這い上がり、30場所ぶりの優勝に感極まった。大関転落後の優勝は1976年(昭和51年))秋場所の魁傑以来という見出しが新聞のスポーツ欄に踊り、ふと「ガチンコ大関」と呼ばれた魁傑將門という力士を思い出した。

魁傑將門(1948-2014)。山口県岩国市出身。柔道で高校時代に活躍し、日大に進学したが、花籠親方(元大ノ海)のスカウトで66年秋場所、初土俵。70年初場所、新十両。71年秋場所、新入幕。74年九州場所、初優勝。75年春場所、大関昇進。翌76年初場所に大関を転落するも、秋場所、2度目の優勝。77年春場所、大関返り咲き。79年初場所、引退し放駒親方に。横綱・大乃国を育成。2010年8月、日本相撲協会理事長就任。12年1月退任。14年5月18日、逝去。享年66。

僕が相撲を好きになったのは小学校3年生の頃だろうか。学校から帰宅すると、テレビのチャンネル権を持っていた祖父がいつも相撲中継を見ていたので、それを一緒に見ていたのがきっかけ。横綱のうちの一人が今も解説で活躍している北の富士さんだった。当時の実況は、アナウンサーは北出清五郎さんと杉山邦博さんの両巨頭。解説も玉の海さんと神風さんが二枚看板だった。同級生に同じ相撲ファンのS君がいて、小学5年生くらいから、学校がおわると自転車で蔵前国技館へ行き、当時子ども料金100円だった立ち見席から観戦することもよくあった。憧れの桟敷席は、祖父と一緒に1回だけ学校をずる休みして観に行った。

僕は登り坂の北の湖のファンで、S君は魁傑のファンだった。小結1場所、関脇2場所、大関3場所で、大鵬の記録を破って史上最年少の横綱に昇進した北の湖だったが、それほど人気がなかった。「憎らしいほど強い」と言われたので、へそ曲がりでアンチ巨人でもあった僕は北の湖を応援した。S君は「クリーンで、真面目だ」と魁傑を応援していた。柔道出身で腰高が難で、解説の玉乃海梅吉さんから「魁傑は未解決」と言われていた脆さがあって、そういうところも含め、S君は魁傑が好きだと言っていた。

その二人が優勝を争ったのが、74年(昭和49年)九州場所。当時のことが、78年に九藝出版から刊行された石井代蔵著「大関にかなう」に書かれている。以下、抜粋。

千秋楽、福の花戦に勝って12勝3敗。15日間の土俵を終えた西張出小結魁傑は、支度部屋に帰ってテレビの前に坐った。結びの一番、東西の横綱同士の決戦。輪島が勝てば、魁傑はこの日まで2敗で単独トップに立っていた北の湖と12勝で同星になるのだ。輪島は、このとき8勝。すでに優勝戦線から完全に脱落していた。支度部屋にいるとき、輪島が不敵な顔つきで魁傑にいってきた。「北の湖は、わしが倒してやるからな」。やがてテレビをみる魁傑の腰が、思わず浮きあがった。

輪島のお家芸、左下手投げに北の湖の巨体が崩れる。そこをさらに切り返して、倒した。弟弟子輪島が兄弟子魁傑のために、見事「援護射撃」を果たしたのである。思いもかけず、優勝を目前にしていた北の湖の鼻先から「逆転優勝」をもぎとる絶好のチャンスが転がりこんできた。支度部屋に引きあげた北の湖は、ショックのあまり顔面蒼白だった。目を血走らせ、周りにあたり散らす荒れようだ。九州場所は大詰めにきて、どんでん返しの波乱に湧きたった。

このときの魁傑の開き直りは鮮やかだった。優勝を意識して、コチコチに硬くなった北の湖が猛然と突っ張ってきた。そこを下から掬うようにはねあげると、逆に突き出してしまった。劇的な逆転優勝。32年夏の安念山以来の小結の優勝である。

九電記念体育館の前は、初優勝魁傑のオープンカー姿をみる群衆に埋め尽くされた。やがてその人々の目に見なれない光景が映った。オープンカーの上で魁傑が手を振っている。そのそばに我がことのように嬉しそうに優勝旗を持つ男―輪島だった。「横綱が旗手になるのはどうもねえ。そんな前例ない」という親方衆の反対を押し切って、輪島が自ら旗手役を買ってでたのだ。相撲界の仕来たりなどお構いなし、輪島ならではの豪華な旗手だった。以上、抜粋。

翌75年春場所に魁傑は大関昇進。しかし、5場所在位して陥落してしまう。その間の成績もよくなかった。でも、けして休場はしなかった。初土俵以来、937回連続出場。引退するまで休場しなかったのも魁傑らしい。そのときのエピソードが、80年に日刊スポーツ出版社から刊行された、北出清五郎著「相撲アナ一代 大相撲との日々」に書かれている。以下、抜粋。

魁傑という力士は、お相撲さんらしくない人だった。話をしても、お相撲さんというよりは、ふつうの人と話しているような感じを受けた。お相撲さんらしい体臭がなく、時にインテリの弱さ、といった面ものぞかせる人だった。ところがどうして、一面では、こうと思ったらとことんまで妥協しない意志の強さを持っていた。その真価が最も発揮されたのは50年名古屋場所で4勝7敗、もうあとがないところに追い込まれた時だ。

報道陣は当然魁傑が休場するだろうと予想して宿舎にかけつけたが彼は断固として「絶対休みません。出れば勝かもしれない可能性があるのに休場するのは、試合放棄と同じじゃないですか。最後までとって勝ち越しに挑戦しますよ」と宣言して出場をつづけ、見事に4連勝して勝ち越しを決めたのである。(中略)

引退発表の席で魁傑の言葉は、いかにも魁傑らしいさわやかさに溢れていた。「楽しくもあり、苦しくもあり、長くもあり、短くもあったような13年間でした。自分としては精一杯やったので心残りはありません。笑顔の引退です」。以上、抜粋。

真面目、クリーン、さわやか。ガチンコ大関と呼ばれた魁傑は、引退後は放駒部屋を創設し、大乃国を横綱に育て上げる。その大乃国もまた、ガチンコ横綱と呼ばれた。88年九州場所千秋楽、結果的に昭和最後となった結びの大一番で、14日目まで53連勝中だった千代の富士を怒涛の寄り倒しで54連勝目を阻止、歴史的な場面を演出した。その千秋楽前夜、部屋での食事中、放駒親方から「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、(千代の富士を)ヒヤッとさせる場面ぐらいは作って来いよ」と言われ、大乃国は「連勝記録は俺が絶対に止めてやる!」と闘志に火がついたという。

魁傑が遺した力士としてのマインドについて、もう少し書きたい。あすに続く。