人間国宝・神田松鯉 「雨夜の裏田圃」と「出世の高松」、連続物の抜き読みに真骨頂を見た
板橋区文化会館で「神田松鯉独演会」を観ました。(2020・08・01)
松鯉先生は僕と同じ板橋区民だ。このほど、名誉区民になられた。去年、講談界では一龍斎貞水先生に続いて2人目の人間国宝に認定され、今も寄席を中心に活躍。7月も上席で新宿末広亭10日間、中席で浅草演芸ホール5日間、トリをとって怪談のネタ出し興行。「番町皿屋敷」「乳房榎」「お岩誕生」「小幡小平次」「雨夜の裏田圃」。盛況だった。11月の赤穂義士伝のネタ出し興行とともに、2002年から続いている恒例だ。まさに師匠・二代目山陽の戯れ句「冬は義士、夏はお化けで飯を食い」。
この日も、「村井長庵 雨夜の裏田圃」のマクラで、この戯れ句に触れ、「このあと、春と秋とは食いっぱぐれ、と続くんですがね」と笑いを取ったが、もはやそんなことはない。「お笑い三人組」で人気となり、参議院議員にもなった一龍斎貞鳳先生(16年没)が出版した「講談師ただいま24人」を引き合いに出して、いまはお陰様で講談師が東京だけでも60人ほどいる、と嬉しそうに喋っていた。この日、お花を贈った板橋区長のお宅とは目と鼻の先だそうで、板橋区のホールでこういう独演会ができることを大変に喜んでいらっしゃった。
1942年(昭和17年)、群馬県前橋市の生まれ。70年、二代目神田山陽に入門し、陽之介。73年、二ツ目に昇進して、小山陽。77年、真打昇進。放送演芸大賞ホープ賞受賞。88年、「神田小山陽の会」で、文化庁芸術祭賞受賞。92年、二代目神田松鯉を襲名。人間国宝認定にあたっては、伝統話芸の継承、とりわけ連続物に力をいれてきたことが高く評価された。「寛永宮本武蔵伝」「慶安太平記」「徳川天一坊」「天保六花撰」「柳澤昇進録」「水戸黄門記」…。持ちネタは500を超え、古書店から速記本を探し、掘り起こしたものも多数ある。
連続物は講談のバックボーンだ、というのが信条で、「江戸時代の連続テレビ小説のようなもの」ともおしゃっている。講談の真打を先生と呼び、講談を「読む」というのは、元々は武士の文化だったことに由来するという誇りもある。また、「必ずダレ場がある。そこをどう聴かせるかが腕の見せ所」と、重厚感と笑いのバランスにも気を配っているのが、松鯉先生の魅力だと思う。
90年に講談の定席、本牧亭が閉鎖してしまった。自分で頑張らなければならない!と奮起をした。ビジネス講談と呼んで「徳川家康に学ぶ人事管理」「がんばれ単身赴任」などの創作も。そして、99年に落語芸術協会に入会が叶い、寄席にでることができた喜びはひとしおだったと言う。3年後には義士伝のネタ出し興行もスタートしているのだから、その思い入れはいかばかりか。
この日に披露したのは、「水戸黄門記 出世の高松」と「村井長庵 雨夜の裏田圃」。どちらも連続物の抜き読みで、真骨頂だ。
「出世の高松」。徳川家康の十一男の鶴千代、後の徳川頼房が京にいた時分、屋敷奉公をしていた小間物屋の娘・おしまにお手が付き懐妊。産まれた子供が「もし男子なら訴え出よ」「もし女子なら十分な手当てをつかわす」と書付けをしたため、証拠の品として三つ葉葵の短刀と香木蘭奢待を授け、京を去る。おしまは実家へ戻ったが、両親とも流行り病で亡くなり、叔父の宗右衛門とその女房が身重のおしまの世話をした。おしまは鶴千代から受け取った品々を風呂敷に包み、叔父夫婦に「決して見ないで下さい」と言って、家の天井裏に吊るす。間もなく男の子が産まれるが、おしまは産後の肥立ちが悪く、命を落としてしまった。
宗右衛門夫婦はこの子を寅松と名付け、我が子のように大切に育てる。月日は流れ寅松9歳の時、雨降りが続き仕事が出来ず、夫婦は寅松に食べさせる物がない。困った宗右衛門はおしまが残した風呂敷包みを思い出し、屋根裏からこれを下ろして中を見る。書付と短刀と良い香りのする木片があるが、宗右衛門にはこれらに何の価値があるのか分からない。香木の香を嗅ぎ付けた道具屋の七六が、「寅松の父親が今は水戸中納言となられた頼房だ」と。
宗右衛門らは江戸へ。小石川のお屋敷を訪ね、御連中に見せると寅松は頼房公のご落胤だと判明。だが、頼房には千代松(のちの水戸光圀)という男子がいる。寅松の方が年上なのだが、千代松がお世継ぎだと発表済み。光圀公の配慮により、自分の養子ということにして、寅松は松平頼重と名を改め、讃岐・高松12万石の藩主になった。松鯉先生の「人の痛みがわかる者が人の上に立つ」というメッセージをこめた読み物だった。
「雨夜の裏田圃」。村井長庵は麹町平河町に医者の看板を揚げているが、医学の知識があるわけでもない。金に困り、強請りなど悪事を繰り返している。故郷から来た妹・お登勢の娘のお小夜を騙し、松葉屋という吉原の大店に売り払ってしまった。長庵の家の二階には、お登勢がいる。狂乱気味に娘のお小夜に会いたいとしつこく言うので、うっとうしくてたまらない。ある日、馬道の三次が訪ねて来る。長庵は三次にお登勢を10両で殺して欲しいと依頼する。驚く三次だが、これを引き受ける。前金で貰いたいと三次は言い、今日この後10両届くからそれまで待って欲しいと長庵は答える。
三次は松葉屋の若い衆になりすまし、娘に会わせるからと言ってお登勢を長庵の家から連れ出す。ポツリ、ポツリと雨が降り始める。歩いているうちに吉原田圃へと出る。三次はお登勢の後ろ側にまわり「このアマ!」と脇っ腹、続いて心臓に出刃包丁を突き刺す。お登勢は間もなく息絶えた。遺骸の前で、「やったのは俺だが、やれと言ったのは兄さんだ」と三次は言い訳をする。
三次が長庵の家に戻ると、長庵はちょうどお登勢が殺された頃に、行燈の後ろに女性のような影が映っていたと言う。長庵は三次に余計なことは喋らなかったかと問い詰めると、殺しを頼んだのは長庵だと言ってしまったと三次は話す。「馬鹿野郎、だから俺の家にお登勢の亡霊が出るのだ」と長庵は三次を叱りつける。三次は長庵から約束した10両を受け取ろうとする。長庵は届くはずだった10両が届かなかったので渡せない。これで我慢してくれと1分の小粒を渡す。たった1分。最初からお前はそういう了見だったのだろうと怒る三次。「お上に訴えてやる!」。怒って三次は家を飛び出す。
三次が浅草・馬道の自分の長屋に戻ると雨は止んで、星が輝いている。木戸を開けて貰おうと隣のおばさんを起こすと、留守にしている間、お登勢という薄気味の悪い女が三次の元を訪ねて来たと言う。三次は冷酒を飲んで行燈を消して寝るが、ふと気づくと行燈がつき、恐ろしい形相をしたお登勢の姿がボッーと浮かんでいる。「勘弁してくれ。俺が悪かった」、三次は叫ぶ。この場面、照明が暗くなり、懐中電灯で松鯉先生が自分の顔だけを照らす。客席はゾーッと怖さと寒気に襲われる。怪談の魅力たっぷりに聴かせた高座だった。
弟子の伯山先生の活躍で講談界はにわかに活気づいてきた。この下地には、長年、連続物に力を入れ、芸の継承に貢献してきた松鯉先生はじめ先人たちの研鑽がある。沢山お持ちの読み物を後進に意欲的に引き継いでいく姿に敬意を表したい。