国本武春と根岸京子という偉大な存在 浪曲界のいまは、この二人による素地があったからこそ

ユーロライブで映画「浅草木馬亭 席亭(おかみ)さんと武春さん」を観ました。(2020・07・27)

伊勢哲監督による「記録映像とライブ映像でおくる浪曲ムービー」である。チラシの説明にはこうある。

2019年暮れ、日本唯一の浪曲定席「浅草木馬亭」の席亭・根岸京子が世を去った。1970年、衰退を極めていた浪曲界のために、夫・浜吉が木馬亭をオープンさせた。夫亡き後も支えつづけて半世紀、おかみさんの愛称で幾多の芸人や観客から慕われた。2015年に急逝した、浪曲界の風雲児・国本武春。武春も「木馬亭は浪曲師の道場」といって、若手・後進たちが活躍の場を広げることを後押しした。いま注目が集まる浪曲界、その冬の時代に灯をともし続けた、偉大な劇場主と浪曲師の姿をとらえた貴重なドキュメント!また武春が高熱のなか演じた、2008年「南部坂雪の別れ」口演ライブ映像を全篇初公開!

上映前の20分の座談も有意義だった。玉川奈々福さんが司会で、伊勢監督と曲師の沢村豊子師匠。豊子師匠は伸び盛りの武春さんと一緒に素晴らしい浪曲を作り上げた。また、木馬亭のおかみさん、京子さんとは仲良しで、定席がないときでも遊びに行って、お喋りを楽しんでいた仲だ。

70年に木馬亭ができ、81年に武春さんが浪曲界に入った。父は天中軒龍月、母は国本晴美でどちらも浪曲師という家庭だったが、武春さんはカントリーミュージックに夢中で、音楽活動をしていた。それが、突如、81年、21歳のときに浪曲を志す。最初は曲師の東家みさ子師匠(83年没)に入門。ほどなく、浪曲師として、東家幸楽師匠(97年没)に師事。曲師の岩崎節子師匠(浪曲師の松葉薫師匠夫人)の相三味線で舞台を踏む。明るい師匠だったそうだ。

節子師匠が体調を崩したとき、「トヨちゃん、あんたじゃなきゃダメ。頼むよ」と言われ、沢村豊子師匠が相三味線を務めることに。豊子師匠いわく「色々な節を持っていた。リズムに乗ると、コロッと変わる。手がどんどん変わる。気持ちよくなると、節も早くなってね。お客もノリノリになってね。それに応えようと、(武春さんも)するし、私も手がそんなに回るほうじゃないけど(謙遜です)それに応える。楽しかった」。浪曲師と曲師が一緒になって、どんどん良い浪曲、愉しい浪曲を作り上げていく。まさに浪曲は二人の芸。武春+豊子で「英国密航」や「赤垣源蔵」はどんどん進化していったのだ。素晴らしい!

映画冒頭の「南部坂雪の別れ」は圧巻だった。2008年6月2日の口演。38.8度の高熱をおしての高座だったという。瑤泉院と大石の心の通い合いが、実に心に響く名演であり、熱演だ。でも、こうした無理がたたって2010年に倒れたのか、と思うと心が痛む。

その後の場面は2015年4月5日木馬亭。席亭の根岸京子さんが、松尾芸能賞の功労賞を受賞した記念の会だ。奈々福さんが司会をしている。武春さんは「紺屋高尾」の熱演。高座の舞台の両脇にまでお客様を入れての大盛況ぶり。すごい。「僕は木馬亭45年の歴史のうち、33年お世話になっているんです。前座の頃は15日間、毎日通っていました」と武春さん。だが、その年の12月に55歳で急逝するとは…。

根岸京子さんは木馬亭がスタートした頃について、インタビューで答えている。奥山という土地は、浅草寺にお参りするお客様が来るということで、「演芸はちょっと…」という空気でした。昆虫館をやってました。花やしきがあるので、1階で木馬をやって、2階で安来節。その合間に落語や浪曲を入れるという。そのうち、1階は「ストリップを」という案が出たけど取りやめ。で、三門博師匠とと東家楽浦師匠から直接依頼があって。「木馬会」という名前ではじめて、鉄筆で書いたガリ版刷りを配って。浦太郎(初代)、勝太郎、雲月(四代目)の名が見える。

武春さんは後進の育成にも精力的だった。2008年、新人4人で「もぎたてカルテット」を結成。東家一太郎、沢雪絵、浪花亭友歌、玉川太福の4人。彼らの浪曲協会の広間での勉強会で、熱心に指導、アドバイスする武春さんの映像にも心打たれた。2009年の「はるはるの会」の映像も。9歳で浪曲界に入った国本はる乃が、13歳のときにお目見えという形で出演している。彼女は「秋色桜」の高座も。武春さんのインタビュー。「浪曲界がすごかった時代の録音が残っている。そういう時代の浪曲大会にタイムスリップしたい。だから、いまはお客様にこっちへ向いてもらう努力をしなきゃいけない。ポップス、ロック、新しい形も模索したい」。武春さんの2009年、弾き語りでの従来の浪曲のとは全くスタイルもトーンも違う「田村邸の別れ」の映像をたっぷり堪能できたのもよかった。常にチャレンジャーだった。

ここで、武春堂の清水善夫さんのインタビュー。「2010年12月に四日市の公演で倒れました。原因不明の高熱が続いていて、何とか解熱して活動していたのですが。ヘルペス脳炎という診断でした」。翌年、5月1日の国立演芸場で「佐倉義民伝」を口演し復帰する。「その年がデビュー30周年だったんで、色々計画していたんですが、諦めて、翌年に31周年でやろうよ、と」。それが木馬亭4月の5日間連続の会だ。2月には松尾芸能賞優秀賞受賞。清水さん「もう、その頃は新しいものを覚えるのが無理でした。『にほんごであそぼ』のうなりやベベンでも、『納得がいかない』とこぼしていましたし、NHKの時代劇で瓦版屋の役で出たときも『台詞が覚えられない』とショックを受けていました」。

木馬亭は「憩いの場であり、檜舞台であり、稽古場でもある」と言っていた武春さんは、2015年12月24日、55歳で亡くなった。翌年2月、浅草ビューホテルで「お別れの会」が開かれた。母の晴美さんが「残念」と一言述べ、根岸京子さんが「彼とはよく討論しました。浪曲定席は続けます」と挨拶。スクリーンに「紺屋高尾」の映像が流れた。5月の木馬亭での「偲ぶ会」では、奈々福さんが「きょうの大トリは豊子師匠です!」と紹介し、「私は生前、一番弟子に認定してもらいました。でも、うなりやベベンが兄弟子だよって笑いながら。これからも浪曲界の旗振り役だったはずなのに」と。玉川太福さんは「私の自己紹介の外題付けを作ってくれたのは武春師匠です。宝物です」とインタビューに答えている。ダイヤモンドかサファイアか、それとも大きな真珠玉~ぁ。

ドキュメンタリー映画の最後は「レットイットビー」に乗った「田村邸の別れ」がバックに流れ、2019年12月おかみさんこと根岸京子さんが亡くなった、享年91と字幕が。現在の浪曲界の下支えをしてきた、根岸さんと武春さんに改めて合掌。そして、この素晴らしい作品を作られた伊勢哲監督に感謝。