壽 二ツ目昇進!橘家文太 福岡を拠点に活動を移す有望株。どんな噺家に成長するか期待大
座・高円寺で「橘家文太二ツ目昇進記念の会」を観ました。(2020・07・19)
文蔵師匠の二番弟子の門朗改メ文太二ツ目昇進記念の会は、高円寺ノラやさんの主催で当初、4月12日になかの芸能小劇場で開催予定だったが、このコロナ禍で延期、会場も座・高円寺に変更しておよそ3カ月後にようやく開くことができた。でも、文太さんは2月中席から二ツ目昇進なので、3月中席まで都内4軒の寄席全てで披露興行40日出演できたわけで、ギリギリでコロナ禍を避けることができたラッキーな男である。
この日の披露目でも、ご自身が「僕は晴れ男なんです。師匠や文吾兄さんは雨男なんですが、僕がいたので、きょうも晴れました」と発言している。実に肝っ玉の大きな、舞台度胸のある噺家だなぁ、とは前座時代から思っていた。落ち着きがある。だけど、生意気には見えず、可愛さを兼ね備えている。得な男だ。それは高座にも良い方向に現れていて、芸人としてとても大切なことだと思う。
2014年12月に入門。16年4月に楽屋入りして、前座名・門朗(これは当時、師匠が文蔵襲名前で、文左衛門を名乗っていたことに由来する)。この日の口上で、兄弟子の文吾がエピソードを語った。「僕のちょうど1年後の入門なんですね。師匠から『今度来る奴は飯食いそうだ』と言われ、要町の駅まで迎えに行ったんです。そうしたら、反り返った男が立っている。『川島君ですか?かな文ですが』と訊いたら、『はい』と堂々としているんですね」。その物真似が実によく似ているんだ。前から、よくやっていて思っていたけど。
福岡は北九州の出身で、出囃子は炭坑節を選んだ。郷土愛の強い男だなぁと思っていた。4月以来、文蔵組落語会の配信で開口一番を務めることが多かったが、同じ北九州出身の先輩、林家きく麿師匠が作った博多弁「金明竹」の「珍宝軒」をよくかけていた。そうしたら、その出身地に生活の拠点を置いて、今後は活動するそうだ。文蔵師匠いわく「石の上にも三年。寄席のない世界で勉強してみなさいと。二ツ目は真打の仮免みたいなもので、本当の免許は真打だから。たまに東京に出てきて落語会をやればいい。本人の努力とお客様の贔屓、お引き立てが頼りです」と温かい言葉だった。
文太さん本人も「崇徳院」に入る前の高座で、「まさか、正楽師匠がヒザに上がっていただけるなんて、感無量です」と。「もう、それだけで披露目は十分。あとは飲みに行ってもいいくらい」。文太さんは、二十歳まで北九州でブラブラと定職に就かずにいたそうだ。「ペンキ屋の倅の中卒」は、成人式の後、とにかく将来のことを考え、東京に出てみた。だけど、目標はなかった。キャバクラの店員をしていたが、馴染めず、仕事帰りに興味本位で末広亭の前で「ここは何をやっているんですか?」と訊いたら、「落語です」。「あぁ、笑点ね!」と思ったら、全然違った。
死にかけのように見えるお爺さんが何かを喋って大爆笑を取っている。カルチャーショックだった。(入門後にそのお爺さんが川柳師匠だと判明したそう)。その次に出てきたのが文左衛門師匠(当時)で、その雰囲気を見て「あ!この人、北九州の人!懐かしい!」と思ったとか。実際は文蔵師匠は東京小岩の人である。だけど、そこに親近感をもって、落語など何も知らなかった男が入門したのだ。縁である。
とりあえず東京には出てみたけれど、所在なかった自分が、楽屋に入り前座修行をすると、「めちゃくちゃ楽しい!」と思ったそうだ。それは、「自分の居場所」を見つけたということだろう。文蔵師匠の優しさや指導方針の的確さもあったのだと思う。当時の門朗はものすごい勢いで落語を吸収し、自分のモノにしていった。高円寺ノラやで、かな文(現・文吾)と門朗(現・文太)の二人の前座の勉強会「ノラ犬の会」がしばしば開かれたが、「え!こんな噺を前座さんができるんだ!」と驚愕したのを覚えている。文吾さんのときもそうだったが、二ツ目になったときから有望株だ。
この日の「崇徳院」も、お嬢様探しをする熊さんの明るいキャラクターが輝いていた。「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末に合わんとぞ思う」。変な都々逸!と笑っちゃう熊さんが、疲弊の果てに「三軒長屋、みーつけたぁー」と、床屋に飛び込んできたお店の出入り職人に飛びつくところ、最高に可笑しかった。二ツ目になって、「天災」や「天狗裁き」を堂々と演れるのも、天賦の才プラス努力の賜物だろう。
福岡が拠点になるかもしれないが、東京で文太さんの名前を見かけたら、その高座を是非拝見したい。そして、10数年後に、逞しい真打になっている姿を楽しみにしている。