元気が出ました。ありがとう、浪曲出世譚! 双葉山も、大浦兼武も、浪太郎も。

お江戸日本橋亭で「浪曲日本橋亭」を観ました。(2020・07・08)

浪曲定席を昨日に続いて堪能しました。場所はお江戸日本橋亭で、毎月ネタ出しの興行です。今月は女性浪曲師による、「元気が出る!浪曲」とチラシに書いてありました。そして、看板に偽りなし!元気が出ました!ありがとうございます。

玉川奈みほ/沢村豊子「鹿島の棒祭り」

奈みほさん、6月木馬亭初舞台で「阿漕ヶ浦」、7月木馬亭で「愛宕山 梅花の誉れ」、そして今回。もう、3席目!どんどん舞台を踏んで、根多をかけ、逞しく育っていく姿を観られるのが嬉しい。酒に目がない平手造酒が、禁じられていた酒(甘酒だけど)を勢いで2升も飲んでしまい、笹川の用心棒として飯岡一家の3人を曲斬りにしてしまうキャラクターが目に浮かぶ。餅を売る婆さんと、餅を投げてキャッチする犬と平手のやりとりも、ユーモアのあるアクセントに。

東家三可子/馬越ノリ子「双葉山」

これが相撲少年だった僕には堪らない一席となった。一代記モノ、浪曲になると良いですね。定次は幼少時代に友だちの吹き矢で右目を失明、15歳のときには船の仕事で右小指を失ってしまう。だが、5尺8寸で20貫の身体で父は相撲取りにさえたいと思い、定次も「横綱になる!」。大分巡業に来た立浪部屋に、双川警部の口利きで入門が決まる。警部の苗字から一文字取り、双葉山と名付けられた。まさに、栴檀は双葉より芳しい。良い四股名である。

昭和5年幕下、6年十両、7年入幕。トントン拍子の出世。10年初場所を小結で迎えたが、初の負け越し。悔しい。それ以上に悔しがったのは父親だ。「右手小指さえあったら…。勘弁してくれ。船でお前を働かせなかったら。みんな、俺がなせる罪」と男泣き。だが、双葉山は答える。「見ていてくれよ、父さんよ。明日から10倍、20倍、人より多く稽古する」。

次の場所には三役に復帰。11年春場所、男女川を破り、夏場所は関脇になり、玉錦も破る。69連勝のはじまりだ。12年に大関昇進、13年に35代横綱、双葉山誕生。晴れの姿の土俵入りに、父も喜びひとしお。14年夏場所に安芸ノ海に敗れて70連勝ならず。20年初場所、引退。45歳で理事長となり、2期務め、56歳で死去。誉れは高き、双葉山の物語。いいですね!

国本はる乃/馬越ノリ子「若き日の大浦兼武」

「武春師匠の一席」と前置きして。九州から出てきて、空腹ゆえに巡査募集の貼り紙を見て応募し、合格した兼武。料亭の金屏風に酔って悪戯書きをする書生風の客がいるとの通報に駆けつけた大浦巡査。見逃してやり、代わりに弁償すると言ったが、なんと屏風は40円!月給2円70銭の兼武は1円の月賦で3年4カ月かけて完済。なんて律儀な男だろう。

その書生風の男は、後に大久保利通や木戸孝允らと欧米視察をし、内務大臣になった岩倉具視その人。あの日の悪戯を思い出し、料亭を訪ねると、なんと巡査が弁償したという!その巡査は今どこに?浅草雷門派出所勤務。呼び出しがかかる。大浦の手を握りしめ、岩倉は「大浦君、ありがとう。路傍の下の悪戯、許してくれ。その真心と意思の強さに頭が下がる」。たちまち、大浦は平巡査から警部補に。鶴の一声で抜擢は続き、明治9年3月に西神田警察署長。13年の西南戦争では伐倒隊の隊長として活躍し、最後は内務大臣に。辛い苦労も無駄じゃない、熱い涙が流れる、玉の露。早逝した武春師匠を思い出した。

玉川奈々福/沢村豊子「浪花節更紗」

浪曲に魅せられ、浪曲師に憧れた若き青年・浪太郎の青春物語。ウダツの上がらない師匠に入門してしまうが、その浪花節にかける情熱、そして実力、さらに師匠の娘の支えで人気浪曲師に出世するという人情物語でもあった。

浪太郎は寿司屋の紹介で二階に居候している浪曲師・石川家浜六に出会い、弟子となるが。本郷の寄席に行くと、浜六の高座「岩見重太郎のウワバミ退治」はハッキリ言って下手くそ。楽屋では他の師匠にお茶を出している。え!?浜六師匠は万年前座?トリの浪花亭綱蔵が浪太郎に訊く。「あんちゃん、何ができるんだい?」「一心太助だったら、め組の喧嘩など、50分くらいはできます」「よし、若造よ。特別に俺の前に15分、演ってみな」。「魚河岸の喧嘩」を演った。綱蔵が言った。「よし、半年辛抱しな。3軒掛け持ち、つけてやる」。

稼ぐに追いつく貧乏なし。浪太郎は勉強家で、評判はますます上がる。浅草組から声がかかった。神田組の浪太郎にとって、これは実力を認められ「借りにきた」ということ。他流試合。石川家浪太郎として、浅草広小路恵比寿亭へ。曲師はゆらという若い女性。手合わせ。いいネジと節だ!受けた。

若手競演会が人形町鈴本亭で開かれた。自分の出番の前に、遠山金四郎、め組の喧嘩、一心太助、魚河岸の喧嘩…自分の持ちネタが全部出てしまった。これは浪太郎を潰してやろうという楽屋の連中の連携だ。やるものがない!万事休す!そのとき、ゆらから手帖を渡された。「慶安太平記~善達三島宿」が書かれた台本だ。読む。浪太郎は奮起する。「これならできる!」。稽古なしの一本勝負。ゆらの相三味線の力も借りて、いつしか高座は拍手の渦を巻いた。大当たり!日本一!

ゆらの目に涙。実は彼女は浜六の娘で、裏の名前は石川家小浜。祖父が浪花節の名人だったが、婿に取ったのが浜六。祖父は18年前に書置きを残して家出して八丈島にいるという。祖父の台本を託されたのが孫娘のゆらだった。やがて、浪太郎はゆらと結婚。大和新聞に浪太郎の記事が載り、花形の人気浪曲師になったという。なんとも、元気が出る一席だった!