講談は面白い! 流派それぞれの読み物を聴くと、その面白さはさらに無尽蔵に広がっていく

上野広小路亭で「講談協会 六月定席」を観ました。(2020・06・24)

僕が講談を聴き始めたのは7年くらい前である。10代の頃から聴いていた落語と比べると圧倒的に知識が少ない。また、仕事で時間に余裕がなかったので、きっかけになった当時二ツ目で登り坂だった神田松之丞さん(現・伯山先生)を中心に、師匠の松鯉先生、姉弟子の阿久鯉先生や鯉栄先生ほか、愛山先生など神田派、あとは喬太郎師匠と共演される一龍斎貞寿先生、松之丞さんの勉強会の開口一番に上がる前座(当時)の田辺いちかさんくらいしか聴けず、講談の魅力に惹かれることができたことはとても幸せだったが、もっと多くの幅広い講談師の方の高座や演目を聴きたいという思いを常に持っていた。

今年4月から時間的な余裕ができたので、ようやくその思いがかなった。この日は講談協会の定席で、田辺、宝井、一龍斎の流派の方の講談を楽しんだ。面白い。知識が希薄なので、一つ一つの高座が新鮮で、前のめりになって聴き入る。講談は落語とは比べ物にならない読み物があるとは知っていたが、毎回、「へぇー、こんな読み物があるんだ」「そうか、文芸作品から採る読み物も結構あるのね」「武士を扱った読み物が多いが、中には平民、政治家、中には講釈師そのものが主人公の読み物もあり、面白い!」。日本史をきちんと勉強せずにいた怠け者の僕でも、わかりやすい講談に改めて魅了された。

田辺一記「三方ヶ原軍記」

一龍斎貞奈「扇の的」

田辺凌天「矢取り勘左衛門」

宝井梅湯「作田玄輔 魚河岸の喧嘩」

主人公は明治の快男児・作田玄輔だが、明治政府の一翼を担った黒田清隆の若きエピソードとしても捉えられて面白い。玄輔は日本橋の魚河岸にある寿司屋に入るが、懐には6銭5厘しかない。寿司一貫が5厘だから、13貫食べられると思っていたら、寿司屋はネタによって5厘、7厘、1銭とあるという。締めて、お代は10銭也。困った!足りない!こっちは日本一の魚河岸の寿司屋だと玄輔と喧嘩がはじまる。

そこへ仲裁に入ったのが、薩摩弁の巡査。「どぎゃんわけで、喧嘩をしっちゅっうちゅうに」。3銭5厘の喧嘩が、屋台をひっくり返す大騒動になってしまった。屋台修理代と寿司職人の日当を合わせ、10円札を巡査が出して喧嘩は収まった。この太っ腹な巡査こそ、若き日の黒田清隆その人だ。作田玄輔については何話か読み物があるらしい。機会があったら、巡り会いたい。

一龍斎貞寿「八百蔵吉五郎」

「天明白浪伝」の中でも珍しい恋愛物語。貞寿先生のキャラクターと口調と講談の技術の高さで、実に素晴らしい高座。舞台となる両国の水茶屋を、ベローチェやドトールやエキシオールカフェに準えて説明するのも親近感が湧く。茶屋のお代に2朱を渡すというのは、今の金額でだいたい300円のコーヒーに、1万円の祝儀を切ったことになる。わかりやすい!

その上、イケメンで色気があって小綺麗な若旦那風の男。お花が惚れないわけがない。番茶が静岡茶になり、金平糖が分厚な羊羹になり。男も「お姐さん」から「お花ちゃん」と呼ぶようになり。2人の距離が次第に接近していく様子が伝わる。チャ、チャ、チャ、という雪駄の裏金の音に胸高鳴らせる乙女心。貞寿先生の面目躍如たるところでしょう。

イライラ疲れで日が暮れて、じれた気持ちに夜がくる。差し込む朝日に瞼の露が光る。これ、惚れちゃった!ということです。実は若旦那は凶状持ち、お尋ね者の盗人と判明しても、「私、あきらめない!」。父の吉兵衛もほだされて、「うちの娘を一緒に連れて逃げてくれませんか。無理やり別れさせたら、娘は死んでしまう」と、八百蔵吉五郎に願い出るなんて!愛の力はすごいです!

宝井琴桜「細井平洲」

米沢藩の名大名、上杉治憲。のちの鷹山を支えた名学者の物語。尾張から江戸に出た平洲は上野広小路で辻講釈からはじめ、神田神明町に「平洲塾」を開き、「惻隠の心」すなわち「仁」を説く。これが上杉家の目に留まり、後に十代目を継ぐことになる直松の教育係に就くのが出会いのはじまり。

「実践の勇気」と「敬」の心を大切にし、関ヶ原以前は120万石だった上杉家は30万石に減らされ、実は15万石の財政でやりくりしなくてはいけないのだが、仕えていた家臣を首にすることなく、倹約を心掛け乗り切ったのは、平洲の辻講釈の教えが基礎にある。国作りは人作り。産業復興を成功させ、治憲は35歳で息子に家督を譲り隠居。だが、その後も鷹山として藩政改革を率先しておこなった功績は、時の十一代将軍家斉も高く評価している。

寛政8年に平洲が3度目の米沢帰還をしたときには、鷹山は手厚く出迎え、普門院でもてなした。のちに、平洲の弟子の樺島石梁へ書いた手紙には、鷹山との出会いから今日までの感謝が綴られ、一字読むたびに涙が溢れて仕方なかったという。それが、「一字一涙の碑」として、普門院に建てられ、その手紙は内村鑑三が英訳して、遠く海外にまで知れ渡ったという。

昭和に入って、文部省は普門院のある関根の地を「敬師の里」と名付け、史蹟に指定した。この講談は、平洲の故郷・愛知県知多出身の五代目宝井馬琴が創作したものだということもわかった。素晴らしかった。

神田織音「滝沢路物語」

江戸時代の人気戯作者・曲亭馬琴の代表作である「南総里見八犬伝」を完結させたのは義理の娘である滝沢路(みち)の多大なる支えがあったことは、かつて芝居で観たことがある。それを講談で聴けるのも、また良い。医師である時村家の三女で生まれた鉄は、22歳で馬琴(本名・滝沢興邦)の子息である宗伯と結婚、名を路と改める。意地悪な姑・百の陰湿な苛めに耐え、病弱な夫・宗伯の看病に献身し、滝沢家の屋台骨として働く。

夫の宗伯は早逝、長男坊の太郎に家督を継がせようと馬琴は考え、家財を売却して用立てた220両で御家人株を買い、士分に。姑の百の嫉妬はますます募る。馬琴は67歳で右目を失明、73歳で左目も光を失い、とうとう全盲となる。あと少しで「八犬伝」が完成するというのに。無念。そこで、聞き書きを買って出たのが、嫁の路だった。文章は漢文調。路はひらがなしか書けず、一文字ずつ馬琴が説明しなければならなかった。路も第1巻から書き移す訓練をして漢字を必死に覚える。

並々ならぬ努力で口述筆記の作業が続いた。そして、ついに天保12年、28年の歳月をかけて全106巻の「南総里見八犬伝」が完結。馬琴は82歳で天寿を全うした。このとき、路は53歳。小石川の深光寺にある馬琴の墓石には、滝沢路の名前も刻まれているという。歴史の影で支えた人物伝があるのも講談の素晴らしさではないだろうか。

一龍斎貞花「左甚五郎 日光陽明門の普請」

神田愛山先生で何度か「陽明門の間違い」を聴いたことがあるが、今回は前編「日光陽明門の普請」、後編「片腕・左の由来」に分けての口演。前編では、地元日光の大工・栗原遠々江の弟子である滝五郎にスポットを当て、その心理描写を丁寧に描いていること、慢心などなく謙虚な甚五郎とプライドばかり高い遠々江の対照が鮮やかに浮き出ていて秀逸だった。

幕府は陽明門の普請を地元の遠々江に依頼したが、遅々として進まないことに業を煮やし、大久保彦左衛門は甚五郎に助っ人を頼む。地元に江戸の大工が乗り込むこと、結果として腕比べとなってしまうこと、遠々江の面目を潰さないようにしなくてはいけない等、人間的にも優れた甚五郎は思案する。答えは「我慢」。

政五郎内身内30人を連れて、遠々江のところにも、公儀の指図なので申し訳ないが来たと、自ら挨拶に出向く。知恩院の評判も知っている遠々江だが、甚五郎が外回りを担当し、内回りの仕事は遠々江親方の持ち分と提案してきたことで気を良くする。

だが、結果は実力がはっきりと出た。遠々江の仕事は近くで見ると細かい細工が良く、すごく見えるが、遠くから見ると引き立たない。一方、甚五郎の仕事は一見粗削りのようだが、距離感の計算が出来ていて、眉毛の一本一本がまるで生きているかのように浮き上がる。なるほど、甚五郎は名人だと評判が立つ。遠々江はカチンとする。名誉が傷つき、面白くない。それぞれに完成の酒宴をおこなったが、恥をかいた遠々江は「日光大工の名折れだ。腹の虫が収まらない。甚五郎を斬る!」と鼻息が荒い。

困った弟子の滝五郎は、家に帰り、妻おはるに委細を物語る。覚悟はできている。できた女性だ。おはるは「止め立てはしません。後に気持ちが残らないようにします。覚悟を見せて、思う存分やってください」と言葉を遺し、息子の利吉を殺害し、自害をする。二人も首を風呂敷に包み、遠々江親方の元へ。すると、親方は「お前のような腰抜けに任せられない。俺が甚五郎を斬る」。だが、滝五郎の女房と息子の首を見て、考えが変わる。「この覚悟があるなら、お前に任せるぞ。師匠に成り代わって仇討ちしてくれ」。そして、滝五郎は駆け出した…。

この続きは明日、という惜しい切れ場だが、これが講談の醍醐味だろう。僕は物理的に都合がつかなくて、翌日の後編を聴くことができなかったが、いつの日か巡り合えることを楽しみにしている。