浪曲映画祭その1 娯楽の王様だった映画の煌めき、そこに忠臣蔵があった。

ユーロライブで「浪曲映画祭」初日を観ました。(2020・06・26)

「情念の美学、風景に節が流れると情景になる」というサブタイトルがついた浪曲映画祭は去年に続き、2回目の開催だ。去年も感じたことだったが、浪曲と映画がどちらも昭和の黄金期に「娯楽の王様」として人気があり、両者が相互に絡み合うことで、より相乗効果を生んでいたことが、今年の映画祭でさらに鮮明に僕の脳裏に焼き付いた。

この日に観た映画と浪曲は以下の通り。

映画「韋駄天数右衛門」(1933年)宝塚キネマ 監督:後藤岱山 弁士:坂本頼光、三味線演奏:沢村美舟

浪曲「不破数右衛門の芝居見物」浪曲:玉川太福、曲師:玉川みね子

浪曲「赤穂義士伝~俵星玄蕃」浪曲:玉川奈々福、曲師:沢村豊子

映画「忠臣蔵 暁の陣太鼓」(1958)松竹 監督:倉橋良介

まず、昭和8年の無声映画である「韋駄天数右衛門」は兎に角、羅門光三郎演じる不破数右衛門が、落語の「粗忽の使者」を彷彿させる粗忽っぷりですごい!使者に行かなきゃいけない家の隣家を訪ねてしまい、大飯を食らうところは抱腹絶倒。子供が羽子板の羽根を川に落としたので拾ってあげようとするが、川に自分がはまってしまうのも、人間的に優しくて憎めない数右衛門がよく出ている。

この映画の一番の本筋は、仇討の兄妹に加勢しようとして誤ってご家内の家老の息子を殺めてしまった数右衛門が、浅野内匠頭の恩情で逃がしてもらい、浪人として寺子屋をしていたところ、松の廊下の一件を聞き、すわ一大事!とばかりに赤穂に駆けつけるところだ。千里一時、虎の子走り、ってこういうことなのかしらん。行く手を阻むかつての敵たちとチャンチャンバラバラ、大立ち回りするところは国民こぞって興奮して観ていたのだろうなぁ。

笑いあり、人情あり、アクションあり。戦前の無声映画、華やかなりし時代に思いを馳せる。忠臣蔵、義士伝を大衆が皆、愛していて、不破数右衛門という人物は人気者だったのだろう。そういう文化が根付いていたことを羨ましく思う。

そして、戦後の映画黄金期に思いを馳せたのは昭和33年の「忠臣蔵 暁の陣太鼓」だ。まず、ストーリー云々よりも、登場する俳優さん、女優さんが、いかにも「銀幕のスター」という言葉にふさわしい美男、美女なんだよなぁ。庶民の手に届かない存在だから、スター。納得いく。見惚れてしまうというのは、こういうことを言うのだろう。で、忠臣蔵という文化が庶民に根付いているから、その中山安兵衛を森美樹、俵星玄蕃を近衛十四郎、玄蕃の門を叩く女侠客・三日月お勝を嵯峨三智子らが演じることに、ピタリ!と役がはまっていることに納得していたのではないかと推測する。配役に合点がいく、というか。

中山安兵衛は江戸八丁堀の貧乏長屋に「けんか指南所」の看板を掲げた。異名を“のんだくれ安”という。男嫌いで通る女髪結いのお勝が安兵衛に惚れた。安兵衛の叔父・菅野六郎右衛門が村上兄弟に斬られた。御前試合に勝ったのを恨まれたのだ。知らせで安兵衛がかけつけたときはすでに遅かった。その場で、安兵衛は叔父の仇を討った。彼の人気が江戸中に高まった。

仇討のとき、浅野家の堀部弥兵街の娘・お妙が自分のシゴキを安兵衛に貸した。お勝の大敵が現れたというわけだ。さんざんもめた末、「二本差しなぞ大嫌いさ」と、お勝は身を引き、髪結いを廃業し、女侠客となった。名も三日月お勝と改め、江戸で名高い剣客・俵星玄蕃の門を叩いた。元禄14年、浅野家はお家断絶となった。吉良家では赤穂浪士の復讐をおそれ、剣客をしきりに雇い入れた。玄蕃にも頼みこんできた。しかし、彼は断った。いつまで経っても、仇討ちの気配はなかった。赤穂浪士は腰抜けと罵しられるようになった。

安兵衛は浪人して八百屋になっていた。お勝は彼と再会し、気が気でなかった。「安兵衛を信じてやれ」と玄蕃は言った。元禄15年12月14日、暁の陣太鼓が鳴り響いた。四十七士の討入り。引揚げの行列の中に、お勝はたしかに安兵衛の姿を見た。熱いものが胸元にこみ上げる。

シゴキを投げたお妙役の佐乃美子と女侠客・三日月お勝役の嵯峨三智子の恋の鍔迫り合い、ここが僕の一番の胸キュンポイント。どっちも美形なのだが、お妙は「可愛らしい」美しさ、お勝は「カッコイイ」美しさを持っていて、もう痺れるのです。その間に立つ中山安兵衛の森美樹!これまたカッコイイ。国民的には俵星玄蕃の近衛十四郎が一番の人気スターなのだろうけど、脇に回っているのが、またいい。

で、この脚本が上手いのは忠臣蔵のヒーローである「中山安兵衛」と「俵星玄蕃」、玄蕃は架空の人物だが、「三日月お勝」を仲立ちにして、この二人を絡ませていることだと僕は個人的に思った。それは昭和30年代には当然の発想なのかもしれないけれど、一般庶民に中山安兵衛や俵星玄蕃といった名前が根付いていたからこそであり、「そういう時代って羨ましいなぁ」と思うのでありました。