林家正雀 正本芝居噺 「男だから 口に出さぬが 心の底で お前の百倍 苦労する」

江戸東京博物館小ホールで「林家正雀 正本芝居噺の会」を観ました。(2020・06・28)

彦六師匠から受け継いだ「芝居噺」を正雀師匠がおやりになっていることは存じ上げていたが、ナマで拝見する時間に恵まれず、今回初めて観ることができました。DVDとして記録を残すことを目的とした会でしたが、芝居噺の魅力に触れることができると同時に、高座が終わった後の、和田尚久さんによる正雀師匠へのインタビューは非常に興味深いものでした。

拝見したのは「真景累ヶ淵 水門前の場」。正雀師匠が1988年に芸術祭賞を受賞されている演目です。いわゆる「豊志賀の死」まで高座で口演し、豊志賀の三十五日に新吉が墓参りしたときに偶然、お久と出逢い、一緒に羽生村へ行く道中、松戸の若松屋という宿で嬉しい仲になった翌日、羽生村の入り口である水門前。お久が転び、そこにあった草刈り鎌で深い傷を負ってしまう。新吉が負ぶうが、「こんな顔になったのも・・・よござんす、愛想もこそも・・・」と言う豊志賀がそこにいる。恐れをなした新吉は豊志賀をバッサリと斬って、振り付けつきの芝居台詞がビシッときまる。素晴らしかったです。

で、正雀師匠へのインタビュー。22歳で入門したとき、彦六師匠は79歳。毎年、「正本彦六ばなし」をするのが恒例だったが、弟子は嫌がっていた。大道具をリヤカーで運ぶのに一苦労。古い本牧亭で「正蔵会」をやっていたが、改装中で上野の宋雲院で「双蝶々」を道具入りの芝居噺の形で上演されたのを大学2年生のときに観たのが「彦六師匠に入門しよう」と思ったきっかけだそう。芝居も落語も好きだった正雀師匠は「両方できる!」と思ったそうだ。

正雀師匠がこの芝居噺を受け継ぐことになったのは、ひょんとしたきっかけ。当時、三波伸介さんが司会をしていた「笑点」に彦六師匠が出演したときに、お伴でついていった。放送で「芝居噺の後継は」という話題になったときに、「弟子の繁蔵(現・正雀)がきっとやってくれるだろうね」と発言したから。芝居噺の基本である「芝居風呂」を前座の頃から「いずれ教えてやる」と言われていたが、二ツ目になったときに、おかみさんが「正雀に教えてあげなさい」と言ってくれた。

で、「教えてくれるんだろうな」と思って、自分の会で「芝居風呂」を演ることを「東京かわら版」に載せた。すると、師匠はその「東京かわら版」をチェックしていた!逆鱗に触れた。「誰が教えた?俺は教えねぇ!」。大しくじり。ただ、たまたまNHKが彦六師匠が「牡丹燈籠」をプーク人形劇場でやるドキュメンタリーを撮影していて、「弟子に稽古をつけている風景を」とリクエストがあり、「じゃあ、この子に『芝居風呂』をつけるから」となり、偶然にも教わることができた!というエピソードも。

芝居部分はどうやって覚えるのか?圓朝全集にも、芝居部分は残っていない。圓朝から一朝老人、そして彦六師匠へと伝わった。その後、舞台美術家の伊東清先生(2009年没)との固い絆で「彦六ばなし」が熟成する。それを正雀師匠は黒子役で傍で見ていて覚えたそうだ。また、日大にフィルムが残っているとも。

※伊東清先生は、日本テレビに入社し、美術デザインを担当。退職後に日大芸術学部の講師も務め、日大の学生からも愛されていた。ちなみに、正雀師匠は日大文理学部卒業。著書に「八代目林家正蔵 正本芝居噺考」「彦六からの手紙」。

今回の収録に当たっては、道具立ての半分は正雀師匠の自宅から、もう半分は上野にある独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所から借りてきたものだそうだ。

ちなみに、「怪談噺のあとは踊りを」が付きものだそうで、正雀師匠は深川を踊られていました。