15年かかって独自キャラを確立、肚から出る古風と品格ある落語が花開いた 古今亭文菊

タケノワ座のネット配信で「文菊のへや 落語と四方山話」第1回~第3回を観ました。(2020・05・13&27&06・10)

様々な演芸配信が雨後の筍のように生まれている。この現象を僕はネガティブではなく、ポジティブに捉えている。芸人さんやその贔屓筋さんが個人で立ち上げたもの、主催者だった方が開催できない状況の中で元々予定されていた会を配信という形にしたもの、この状況を見て新たに演芸の世界に新規参入したもの。方法もYouTubeくらいしか知らなかったデジタルに疎い僕が、note、movie、DMM、zoom、(これらは配信の方法?)、peatix、livepocket(これらは販売方法?)などの固有名詞を覚えた。無料のもの、有料のもの、投げ銭システムのもの、など金額も様々だ。コロナ禍を機に、デジタル時代の進化が演芸の世界にワッと押し寄せてきた印象だ。百人百様の考え方で、配信を捉え、ナマにこだわるのか、収録にするのか、アーカイブの期間は何日設けるのか、視聴者参加型にするのか、さまざまな模索が続いている。いい意味で群雄割拠状態、古い体質を否めなかった演芸の世界に新しい風が吹いていることだけは確かだ。

文菊師匠の落語一席とおしゃべりに特化した、タケノワ座さんの取り組みに興味を持った。まだ3回しか配信していないので噺の選択も、「初めての人でもわかりやすい、口慣れたネタ」(文菊師匠談)を選んだが、その後の主催者さん(画面上は見切れている)をインタビュアーに、視聴者からのナマの質問にも答えながら展開する「四方山話」は、噺家としての稔侍や現在の配信の状況について、文菊師匠が奇譚のないところを喋り、僕は大変に興味深く聴いた。正直に申し上げると、抜擢真打の頃はそれほど熱心に聴く噺家さんではなかったが、ここ1年くらいで僕は急速に独特のキャラ作りに成功した文菊師匠のファンになり、そして、その了見を知ることで、ますますファンになった。

そして、令和元年度国立演芸場花形演芸大賞受賞、おめでとうございます!

週刊ポストに広瀬和生さんが連載中の「落語の目利き」第112回で、文菊師匠を取り上げ、このように書かれている。以下、抜粋。

最近、古今亭文菊の「妖しい魅力」にハマっている。文菊の大きな特徴は、独特の「気取った」物腰。膝を深く落とす勿体ぶった歩き方で高座に現れ、「自分でも嫌なのよね、この気取った雰囲気。皆さんの、その突き刺さるような視線…」などと自虐的に語るのが寄席の文菊の定番だ。その「気取った感じ」は以前より遥かに突きぬけていて、落語そのものに「妖しい魅力」を生んでいると気付いたのは、今年2月11日の上野鈴本演芸場の夜席で文菊の「あくび指南」に遭遇した時だ。(中略)

文菊の「あくび指南」は柳家喜多八の型。つまり春風亭一之輔とルーツは同じだが、文菊は、豪快に暴走する一之輔とはまったく別の妖しい方向へこの噺を進化させ、爆笑を誘った。時に素っ頓狂な声を張り上げてみせるメリハリの効いた演技の可笑しさは、昔とは別人のようだ。文菊が「化けた」と気付いた僕はこの「妖しい魅力」を深く味わいたいと思い、翌日横浜にぎわい座での「よこはま文菊開花亭」を当日券で観ることにした。(中略)

圧巻だったのが「百年目」。屋形船で鼻に掛かった声で「ネェ~」と甘える芸者たちの騒々しさは文菊ならではの楽しい演出だが、特筆すべきは風格に満ちた旦那の品の良さ。優しさの中に威厳がある。向島の花見で芸者たちと派手に遊ぶ番頭と遭遇した翌朝の、説得力ある台詞廻しは聴き応え満点だ。(中略)持ち前の柔らかで粘りのある語り口が、もともと上方落語である「百年目」の本質に合致しているように思えた。こういう演者は、ちょっと他に見当たらない。以来、僕は本格的に文菊を追いかけている。以上、抜粋。

さすが、広瀬和生さん。独特の「気取り」は単に表面的に笑いを取る目的のものではなく、そこを突き抜けて、芸そのものが威厳すらある品の良さにつながっていると指摘されています。納得しました。

で、「文菊のへや」は、第一夜「厩火事」、第二夜「三方一両損」、第三夜「棒鱈」。

残念ながら情報をキャッチしていなかった第一夜は、その後に第二夜と第三夜を購入した人に「厩火事」の高座を配信してくれるサービスがあり、ありがたかった。以降は第二夜と第三夜の四方山話で喋った文菊師匠の発言で、「なるほど!」「ガッテン!」と思ったことを書き残してみたい。

(第二夜 四方山話)

元々、落語は都市部の芸能で、そこに住む町人の感性で磨かれてきた。同様に、地方にも、神楽や村芝居といったその村人たちによって育まれてきた郷土芸能がある。だから、落語はそもそも誰にでも(どこに住む人でも)伝わるモノではない。全然伝わらないということさえある。だから、こうした配信ではなるべく多くの人に理解してもらうために、わかりやすい噺を選んでいる。噛み砕く。間を取る工夫をする。でも、それですべての人にわかってもらうのは難しい。

守備範囲が広い芸人がいる一方で、私は狭い芸人。それで良いと思っている。じゃあ、何をするか。深めるしかない。細い路地は、多くの人に入ってもらうために広げた方がいい。だけど、広かねぇんだね、私の場合。入ってきてくれた人が、「好きだな」と思ってくれて、それがちょっとずつ広がっていけばいい。だから、そう言う意味で、こうした配信が意義あることであってほしい。

寄席と独演会では心づもりが違う。寄席は色々なお客様が来る。統一されていない。客層は日によって違う。中入りより前の出番か、後の出番か。色物さんの後か。人気者の後か。同じ15分高座でも、毎回違う。その短い時間で、自分というものをアピールし、受け入れてもらうにはどうしたらよいか。「この人、嫌!」思われたら取り返しがつかない。スーッと高座にあがったとき、「気取っているんじゃない?」、言われたことはないけど、10年も噺家をやっていれば、自分がどう受け入れられたか、感じることができる。2割は「イイネ」と思っていても、8割が「引いているな」と感じる。それが高座に座って演りだすと、残り4割が「来てくれる」。だけど、まだ4割は「引いている」。

独演会で「イイネ」と言われて満足しているようじゃ駄目。シュッとしている、気取っているように見える、「何、この人!嫌!」を逆転させるにはどうしたらいいか。マクラをこしらえて、洒落にして、「聴いてください」とお客様をもっていく。そのマクラを3分にまとめるのが、ようやくできたのが2年前ですね。師匠(圓菊)は「もってきよう」と言っていたのと同じ。最高のマンネリ。お約束。お決まりを作る。これは大切なことです。ですから、独演会であのマクラはやらない。それがわかっているお客様ということを前提に噺に入れるから。初めての地方の仕事だと、まず自分を受け入れてもらうことが大事。洒落に包んで、お付き合いください、とお客様をもっていく「あの3分」に辿り着くのに、15年かかった。

弟子入りのきっかけは、圓菊師匠の「付き馬」を聴いたこと。演る人、少ない。難しい。近いうちの演ってみたいとは思っている。でも、得する噺じゃなくて、儲け所が少ない噺。苦労が多い割に、響かない。吉原から大門くぐって、浅草雷門まで、明け方に二人で歩いている風景。それを感じ取ってくれる方が少ない。多くの人は笑いたい。刺激がほしい。ジーンとくるけど、ドン!と大衆に響かない。「文違い」もそう。ある特定の客層がイイネ!という。演る場所が限られる。儲からない噺。でも、好きだから演りたいんだね。

美しい人の定義。化粧や洋服で着飾るのとは正反対。身だしなみ。着物を選ぶセンス。髪の毛の手入れが行き届いているというような。視覚的なことで表現しようとしても、ある程度のところまでしかいかない。美しい、よりも、清々しい、清らかな人でありたい。俺だ!というような我欲、人間の欲望が沢山積み重なると、滞る。水が淀むのと一緒。スーッと流れていけば、清らかで美しい。橋を架けたり、ライトアップしたり、桜を植えなくても。滞らない人、執着のない人。執着の塊を一つずつ取って、ドブに捨てる作業が大事。それらが取れて、思いがスーッと流れると、清らかで美しくなれる。

落語は滞りを愉しむモノ。しぶきを上げていく様を見せろ。スーッと流れるのは見たくない。濁流。淀みを見せるのが落語だから。談志師匠は「毒でいいんだ」と貫き、人の心を掴んだ。惹き付けた。淀みや滞りを取っ払う作業を生涯かけてやるというやり方もある。両極あっていい。

(第三夜 四方山話)

120人の人が購入してくださったが、LIVEでご覧になっているのは30人。アーカイブは3日間残るの?そうすると、同時配信、ライブ感の意味ってなんだろうね。収録でいいや、ということも考えられる。悩ましい。でも、ライブだからこそ、ありのままを喋ってくれる、普段見られない姿が見られて嬉しいという声も。特に、このトークはね。無観客配信は演りにくいから、スタッフだけでも反応してほしい、いや、それは嫌だ、両方の意見が分かれるのよ。反応があった方がライブ感が増す?演者側から言うと、スタッフの笑いは好ましくない。お世辞?とか思っちゃう。お客様がいるのが、これまでは当たり前だったでしょ、それに合わせて駆け引きがある。その意味で「スタッフの存在」は違うのでは。

でも、NHKの収録とかでも、「笑い屋」がいたりする。雇われて、盛り上げる演出にする。反応をする仕事。はたして、それはライブ感なのか。笑いのレベルが測れない。ニュアンスもわからない。そういう難しさがある。いないなら、いない方がいい。笑い屋は演りにくい。思わぬところで笑われて、間が狂うこともある。

ナマの配信は、その空気感と過去の寄席の高座がミックスされて脳内再生されるから、配信の方が演者と近く感じるという視聴者からのツイートに、「それはラジオの方がリスナーと近い」という感覚に似ているかもと。寄席が元通りになったら、配信は不要か?という質問に、「残っていくと思う」。距離的に遠くて会場に足を運べない、入院中、介護や育児で物理的に無理な人には優しいサービス。今はお小遣いをほとんど寄席や落語会通いに使っているというファンの方から、「私も最初は父の持っていたLPレコードがきっかけだったから、落語に縁のなかった人が配信でその魅力に気づくというのはあると思う」というメールも寄せられ、激しく同意した。

文菊師匠いわく。配信をやめる人、続ける人、どっちも正解。「こうあるべきだ」と決めつけるのはよくない。可能性を探っていけばいい。特に地方在住の方にはなかなか聴いていただく機会もない。紅茶とフルーツを用意して猫を抱きながら配信を楽しむ人、演者と客席が一体となる、その空間と時間の共有、ライブならではの魅力を堪能する人、どっちもあっていい。6月、鈴本さんは寄席の形をそのまま配信する試みをしているが、画期的だとも。

さらに演者の立場で言うと。「文菊のへや」のような配信は、独演会と同じで気楽でやりやすい。でも、寄席は違う。客席の目と同時に、楽屋の目がある。緊張感が違う。また、寄席の流れがある。どちらが良いという問題ではないが、修行の場であることは確か。あと、やっぱり、地方に行ってホール落語に出演すると、どうしても「わかりやすい」落語をしてしまう。でも、配信だったら、多少マニアックなネタを演って、地方の演芸ファンを満足させてあげることができるとも。まだ3回だから、口慣れた噺にしたけれど、ある程度回数いったら、「柳田格之進」とか「お直し」とか、演ってみたいよね。

賛成です!次回、第四夜は6月24日だそうです。