エンターテインメントとしての落語が生き残る 立川談笑一門のイズム
rakugo on webで「立川談笑一門会 on WEB」を観ました。(2020・05・30)
立川談笑師匠は、その合理的なモノの考え方と、クレバーな頭脳から発想されるアイデアで、2000年代、志ん朝師匠亡き後、落語をエンターテインメントとして盛り上げた落語の担い手の代表選手の一人だと思っている。元予備校講師という経歴、フジテレビ「とくダネ!」リポーターとして落語の高座以外での活躍との相乗効果もあり、志の輔、談春、志らくと並べ、立川流四天王と、「BURRN!」編集長の広瀬和生さんは称した。
弟子の育成方法も合理主義で、師匠の家に来て掃除や洗濯をさせる時間があったら、様々なエンターテインメントを吸収しなさい、前座時代から新作を創りなさい、という風に言っている。逆にクリスマスに自宅のホームパーティーに「暇だったら、来ない?」と弟子を招待し、自らローストチキンをふるまうという優しさだ。実際に吉笑、笑二、そして今年、二ツ目に昇進した談洲、全員優秀な噺家として育ち、活躍している。だが、弟子の才能やセンスを見抜いて、噺家に向いていない弟子と判断した場合は、その弟子の将来のことを思いやって、辞めるように言う。素晴らしい。
で、このコロナ禍の中、談笑師匠も含め、二ツ目の弟子三人はそれぞれに独自に配信など、積極的な取り組みをして、他協会含め、若手の中でも際立っているそんな中での一門会の今回の配信。これは、毎月、吉祥寺にある武蔵野公会堂で開催されている「立川談笑一門会」が、3,4、5月と中止になったことを受けて配信されたものだ。この一門会もユニークで、必ず師匠・談笑がトリを取るわけではなく、二ツ目がとることもある点、事前に全員ネタ出ししている点、当日受付のみ予約なしという点など、ほかの落語会と一線を画しており、僕も都合がつくときには行くようにしていた。その無観客ライブ配信だ。
笑えもん「道灌」笑二「持参金」談洲「やおよろず」談笑「粗忽長屋」吉笑「歩馬灯」
笑二さん、この噺は下手が演ると「めんどくさい女を金で解決」という男尊女卑が全面に出てしまうが、笑二の手にかかると、全くそれを感じない。むしろ人間の温かさすら感じる。身籠った女中おなべを引き受けた熊は「愛している!」とまで言い、「昨晩は気が合って、一緒に踊ってました」。「あっしの女房から生まれてくる子は、あっしの子です」というセリフが心に刺さった。
談洲さん、2月の渋谷らくご「しゃべっちゃいなよ」でネタ下ろしした新作。そのときから、よくできていて面白い!と思ったけれど、どんどんブラッシュアップされている。フライト中の飛行機の乗客の中に、神という異名を持つ人間が佃煮にするほどいて、緊急オペができる!野球チームが結成できる!果ては、キャビンアテンダントの理想の男性が見つかるばかりか、ライバルまで現れる!ミラクルという名のパニックが愉しい。
談笑師匠、粗忽イコール思い込み、という解釈で、「同時に二か所に、熊という同一人物がいる」ということを、聴き手も巻き込んでワンダーランドに招き入れてしまう。サゲが通常で終わらず、「ここでサゲてもいいのに」と言いつつ、展開。長屋の粗忽コンビが、「全然違う!これ、黒人だよ!」と、死骸は熊ではないことに気づくのが革命的!
吉笑さん、「人は死ぬ瞬間に過去の出来事を走馬灯のように思い出す」が、その馬が全然走ってなくて、ゆっくりとゆっくりと歩くように再生され、幼稚園時代の記憶が次から次へと展開し死んだ当人が、「え!?ダイジェストじゃないの?まだ、30年分残っているよ!」と焦るのが、なんとも面白い。
談笑イズムがしっかりと根付いた弟子たちとの一門会。師匠の、落語もほかのエンターテインメントと同じ土俵で戦うべきだという思想が流れている。2010年に刊行された広瀬和生さんのインタビュー集、「この落語家に訊け!」(アスペクト)から、抜粋。
談笑 お客さんの感想はマメにチェックしてますけど、ネガティブなのは、やっぱり、いわゆる「本寸法」が好きな人達からの批判ですかね。お客さんの二極化みたいなことは感じます。落語をエンターテインメントとして捉えて楽しむ人達と、昔ながらの江戸情緒を感じたい人達と。
―後者は淘汰されていくのでは?
談笑 とは思うんですけどね。ただ、今の若い落語家でも、まだ本寸法の江戸情緒の側を見据えている人達がいるのを見ると、「こっちはこっちでまだやりたいんだよね」という綱引きはまだ続いていくような気はしますね。
―この数年間で、落語の世界に一種のパラダイム・シフトがあった、と僕は思っているんですよ。落語は現代エンターテインメントの一つである、という当たり前のことが、ようやく常識になってきた。だけど、そこに気が付いていないような、まだ天動説を信じているような人達は、地動説に背を向けて、天動説の正しさを一生懸命計算している。
談笑 結局、落語家になる人材の問題なんですよ。落語家、今のところそんな儲からないですから。そこに金が付いてくるっていうことであれば、優秀な人材が集まるでしょうけど、客が水準の高いエンターテインメントを求めているのに、集まる人材が乏しければ、落語という形式は残っても、危機的な状況に陥るかもしれない。
―自分の落語を演るにはセンスが必要だし、頭も良くなきゃいけない。自分の落語を語るには才能が必要ですよね。でも、実際には、そんな才能を持ってる人間が落語家になるとは限らない。
談笑 落語の世界において、ネタは共有出来るし、しゃべりのスタイルというか、話芸の部分を師匠に教わることが出来るんであれば、もう一歩踏み込んで、センスみたいなのも受け継いで、共有出来るようになればいいと思うんですよ。「上手いのに、何でそっちに行っちゃうかなぁ」みたいな人を、少しでも良い方向に導くような…どうですかね?余計なお世話なのかな。(笑)
2015年刊行の立川吉笑著「現在落語論」(毎日新聞出版)の中で、吉笑さんは「談笑イズム」のその先も見据えている。
ぼくは落語を「笑いを表現する手法」として捉えている。面白い笑いをつくることが第一条件で、だからこそ落語というツールを選んだわけだ。となると、徒弟制度が崩壊して落語界に構造改革が起ころうと、とにかく方法論としての落語を利用できさえすれば問題ないようにも考えられるけど、実際はそうではない。落語家になるべく入門しようと決心した際に、そして実際に落語家になってからのこの5年間に、ぼくはめちゃくちゃ落語を好きになった。
現在の落語界のシステム全体を守っていきたいと考えている。もちろん自分の好きな笑いを表現したいという欲求は変わっていないけど、ぼくとはアプローチが違う昔ながらの伝統芸能として落語を演られている落語家さんのことも好きだし、自分が好きな落語を好いてくださるお客さまのことも好きだ。(中略)
落語には伝統性と大衆性という二つの側面があって、もちろん伝統性に比重をおいたこれまでどおりの印象の落語家もいる一方で、「お笑い」と遜色ないような現代的な笑いを表現しようとしていりる落語家もいるのだと伝えていきたい。そんな現代的な笑いを表現する上で、落語という表現方法が、ある部分において漫才やコントよりも優れているということも証明したい。
落語を笑いを表現するツールの一つと捉えて、「お笑い」と「落語」の中間のような、そんな微妙な場所に立っているぼくだからこそ、「従来の落語」と「外部参入してくる新たな流れ」とが交差するポイントの最前線、そこから少しだけ落語寄りの位置に立っていたいのだ。そう言えばずっと、外部参入してくる新たな流れが「お笑い」という方向からだと勝手に決めつけているけど、それがたとえば「イケメン俳優」のような方向からだったら、自分はまったく無力である。そのときは、最前線にいるであろうイケメン落語家の仲間たちに落語界を託したい。以上、抜粋。
現在、イケメン落語ブームなどない。頭脳プレイの落語が生き残り、エンターテインメントとしての落語の将来は、こうした若手たちによって明るくなっていくだろう。