追悼 柳家喜多八師匠 清く、けだるく、美しく(上)

柳家喜多八師匠が亡くなったのが2016年5月17日。きょうで、ちょうど丸4年。三回忌とか七回忌とかではないけれど、この命日に喜多八師匠のことが書きたくて、筆をとりました。

まずは、亡くなった年の6月に書いた僕の日記を転記しますね。

今月(6月)15日、なかのゼロ小ホールで行われた落語教育委員会に柳家喜多八師匠の姿はなかった。いつも通りにオープニングコントが始まり、ヤクザ役の歌武蔵を追いかける刑事として、殿下の代演で扇遊師匠が登場。会場にはちょっとしたどよめきが響いた。このコント刑事殉職編は第一回の落語教育委員会でやったものだそうで、いわば喜多八追悼の思いが込められたものだろう。コントの後は、開口一番にろべえ、次に歌武蔵で中入り。扇遊が上がって、トリは喬太郎。4人がそれぞれに少々の殿下の思い出を語った。そして、喬太郎は「純情日記 横浜編」を演じ終えると、お辞儀をして、おもむろに座布団を返し、メクリを下げて、高座を去った。そして、殿下の出囃子「梅の栄」が流れる中、幕が降りて、終演。座談会など特別なことをしない進行が、むしろこの会の喜多八追悼らしくて、心に響いた。

落語教育委員会という三人会がはじまったのは、確か12、3年前だったと思う。僕が長野に勤務していたときに、東京かわら版の広告に喬太郎師匠のいつも三人の似顔絵が載って開催の告知をしていたのを覚えている。なかの芸能小劇場だったと思う。今のように夢空間のような大きなプロモーターが主催する会ではなかった。以来、喬太郎ファンの僕は東京に戻ってからは、大概の落語教育委員会に通った。あくまで理由は喬太郎師匠が出るからだったが、そこで喜多八師匠の芸の魅力に触れることができるのも楽しみのひとつだった。

冒頭に気だるそうに高座に上がり、「夏の疲れがまだ取れない」「虚弱体質ですから」というのが定番だった。「寄席は大人の遊び場」「私は上品だから、それが芸に出ちゃう」「落語と言うのは上手い、下手ではなくて、お客様の好みに合うか合わないかですから」などが口癖で、飄々とマイペースな高座はいかにも噺家という風情が漂っていた。僕は落語教育委員会を中心に聴き、博品館の膝栗毛や扇遊師匠と鯉昇師匠との睦会などには足を運ばなかったから、年間に6~7席ほど聴く程度で、熱心なファンとは比べものにならないが、どこか気になる師匠だった。

殿下が病気だ、ガンらしいという噂は以前から聞いていたが、高座では最後まで弱ったところを見せなかった。病気の影響で歩くのが不自由になってからは、板付きで登場することになったが、朗々とした声で高座を勤め、「本当にガンなのか?」と思うほどだった。楽屋ではかなりお疲れの様子だったと聞いたが、高座ではシャン!となるのは、これぞ芸人根性だ。不遜な言い方だが、今年に入ってからは僕の方にも「いつ、この高座が見られなくなるかもしれない」という思いがあるから、食い入るように殿下の高座を聴いた。

今年、僕は6席の高座を聴いた。そのうち3席が「やかんなめ」。得意中の得意ネタである。「よくぞ身共を呼び止めた!」。必死に依頼する女中、脇で笑っている可内。その中で張り切るやかん頭の武家の滑稽がますます磨かれた素敵な高座だった。落語教育委員会は4回行った。1月鈴本「明烏」、3月練馬「居残り佐平次」、4月にぎわい座昼「あくび指南」、夜「やかんなめ」。

この4月30日の横浜にぎわい座が僕にとって最後の高座となった。「やかんなめ」の可笑しさはもちろん、「あくび指南」の味わい深さも絶品で、とても良いものを観せてもらったと帰りの湘南新宿ライナーで余韻に耽ったのが良い思い出となった。その最後の会のときに披露したコントが「死神編」で、それまでは足が悪いということで、コントは歌武蔵と喬太郎が曇空ひろう、かろうコンビで漫才をするパターンだったが、「殿下がどうしてもコントに出たい」ということで、考えられたもの。病人役の歌武蔵が寝ている枕元にチョコナンと座っている殿下。医者役の喬太郎とは対照的に、何もしゃべらないんだけど、時折、ニッコリと笑顔を見せて客席に顔を向ける殿下が可愛らしくて・・・。ちょっと洒落にならないコントだよという方がもいたようだが、「最期までお客様を笑わせたい」という喜多八師匠の芸人根性が垣間見えて、忘れられない会になった。

執念の人、柳家喜多八。こんなに亡くなる直前まで高座に上がり続け、命を削るようにお客を笑わせた噺家を見たのは初めてだ。この高座への熱い思いが、次世代の噺家に引き継がれますように。冥福をお祈りいたします。合掌。

以上です。きょうから3日間、「東京かわら版」2015年11月号「今月のインタビュー 柳家喜多八」、同2016年7月号「追悼 柳家喜多八」、2014年に出版された柳家喜多八著・五十嵐秋子(東京音協)編「柳家喜多八膝栗毛」(まむかいブックスギャラリー)、2012年刊行の柳家喜多八・三遊亭歌武蔵・柳家喬太郎著「落語教育委員会」(東京書籍)などから抜粋して勉強させていただきながら、僕よりも圧倒的に師匠のことがわかっていた方たちによる「本当の喜多八師匠の魅力」に迫れればと思います。

まずは「東京かわら版」2016年7月号の「ありがとう、柳家喜多八師匠」の冒頭部分です。

あの“気だるそうな”独特の出から だんだんと熱を帯びてゆく 骨太でこだわりのある高座はファンに愛され 病と闘いながらも 最後の最後まで高座に上がり続けた 落語の面白さ、魅力を教えてくれた 稽古熱心で芸人仲間からも慕われた 噺を発掘して定番化した 後輩に噺をたくさん教えた スタイルがあり、ダンディで格好よかった 小体な体つきが粋だった お酒とタバコと自転車をこよなく愛し なにより“落語”を愛した 素敵な高座をありがとう、喜多八師匠

【柳家喜多八(やなぎや・きたはち)】1949年10月14日、東京・練馬区生まれ。学習院大学卒業後、会社員を経て、77年2月、柳家小三治に入門。翌年9月より楽屋入りし「小より」。81年5月、二ツ目昇進して「小八」。93年9月、真打昇進して「喜多八」。2016年5月17日午後11時17分、がんの為、永眠。享年六十六。

7月号「喜多八を偲んで1 落語睦会編」から抜粋。

鯉昇 僕が最初に会ったのは川越の落語会で、彼が小八の頃。うちの協会でも落語が上手いと評判になってた。だけど、何がってのは伝わってこないんだけど、変わり者らしいと。なんかこう、取っ付き悪いのかなって思っていたら、不思議ですね、最初から全然違和感なくこういう会を一緒にやるぐらいの仲になってた。ちゃんと話したのは高田馬場の寿司屋なんですよ。

扇遊 そうでしたっけ?落語好きな、変わり者っていうのかな。いわゆる、わがままというか。好き嫌いはけっこう激しかったと思いますよ。私みたいに、八方美人でも優柔不断でもなく(笑)、自分というものを持ってたおじさんです。私たちは年下ですけど芸の上では先輩ですから、決して殿下とは呼びたくなかった。だから、おじさんと。

鯉昇 僕の方が先輩だから我慢しているんじゃないかなってちょっと気を使ったこともあるんですけども、結果的にそうじゃなかった。我慢は何年も続かないからね。

扇遊 落語睦会は池袋演芸場が新しくなって、特選会に空きがあるから、なんかやりませんかと言われて始まった会なんです。最初はこぶ平(現・正蔵)さんが入って4人でやってましたから、私は「にたりよったり会」でいいんじゃないかと言ったら、喜多八さんが「兄さんはふざけてる!」って言う。で、名前は喜多八さんが考えた。(中略)

扇遊 噺家はみんなそうなんだろうけど、とにかく喜多八さんは落語が大好き。それにまあ一生懸命稽古してたね。いろいろ新しい噺も自分のものにして、「ラブレター」とか「三十石」とか浪曲の虎造モノとかも許可もらってやってみたり、「いかけや」なんて今あまりやらないものを自分のものにしてたね。ネタも多かった。高座の出から喜多八の世界を作り上げてましたよ。

鯉昇 睦会はじめてから、「あの噺は誰がやるの?」って落語の噺が多かった。僕らも、えっ、っていうようなネタをどこからか見つけてくる。「春雨宿」「旅行日記」とか芸協の中でやられているような噺をずいぶん持っていましたね。

扇遊 噺に関しては貪欲でしたよね。正直言って、一番ネタ多いもんね。

鯉昇 兄さんはわかりませけれども、こんなに会が続くとは思わなかったから、二巡目三巡目という時に、喜多八さんはまだ新ネタが、いくらでもありましたね。以上、抜粋。

喜多八師匠の独演会「喜多八膝栗毛」、およびこの扇遊師匠と鯉昇師匠との睦会をプロデュースしてきた、いがぐみ・五十嵐秋子さんの「一緒に仕事ができてよかった」を同じく7月号から抜粋。

ニッポン放送イマジンスタジオの「有楽町噺小屋 独り看板」シリーズで、師匠ともそこからです。2006年、芸歴30周年で打ち上げ花火をと思って、3日間博品館連続独演会、最初の「膝栗毛」を。小朝師匠、志の輔師匠、小三治師匠に日替わりゲストをお願いして「籠釣瓶」の連続ものにしました。「五十肩で扇子が持てないよ」と公演当日に泣きの電話を掛けてきた時にはおいおい、勘弁してよって(笑)。(中略)

寄席を休むようになってからは、一席一席にさらに思いをこめてやっているように見えました。近くにいて「休養してゆっくり治せば」なんてとても言えなかった。高座を取り上げたら死んじゃうんじゃないかって思ってた。高座のために、あの身体で頑張って闘っているようにしか見えなかったから。

高田馬場で居酒屋「うどの大木」があった頃は、しょっちゅう呼び出されたり、会の後に流れ着いたりして毎度深夜解散。呑みながら対等に話してくれました。たまに意見すると「なにさ、なにさ!素人になにがわかるのさ」って女口調でぷりぷりしてね。以上、抜粋。

師匠の落語への情熱。それに対する畏敬の念を持ちながらも、対等に付き合ってもらったことへの感謝。五十嵐さんの気持ちが伝わってくる。2014年に出版された柳家喜多八著・五十嵐秋子(東京音協)編「柳家喜多八膝栗毛」(まむかいブックスギャラリー)から、その06年9月の30周年3日間博品館連続独演会のプログラム。

第一夜 ろべえ「元犬」喜多八「五人廻し」小朝「七段目」その・優子/吹きよせ 花の吉原 喜多八「籠釣瓶花街酔醒」(上)

第二夜 こみち「やかん」喜多八「宿屋の富」志の輔「はんどたおる」その・優子/たぬき 喜多八「籠釣瓶花街酔醒」(中)

第三夜 ろべえ「浮世床~夢」喜多八「首提灯」小三治「一眼国」その・優子/吉原・秋 喜多八「落ち武者」「籠釣瓶花街酔醒」(下)

その後、07年5月からほぼ年4回のペースで「喜多八膝栗毛」がスタート。春「粗忽の釘」「子別れ」夏「いかけ屋」「おすわどん」「お化け長屋」秋「片棒」「茄子娘」「品川心中」冬「近日息子」「棒鱈」「厩火事」春「たけのこ」「宮戸川」「景清」夏「船徳」「かんしゃく」「鰻の幇間」秋「噺家の夢」「盃の殿様」「二十四孝」冬「長短」「がまの油」「文七元結」春「だくだく」「将棋の殿様」「百川」夏「夕涼み」「あくび指南」「千両みかん」秋「もぐら泥」「目黒の秋刀魚」「明烏」春「鈴ヶ森」「お見立て」「二番煎じ」夏「ラブレター」「小言念仏」「らくだ」秋「旅行日記」「ぞめき」「井戸の茶碗」冬「代書屋」「やかんなめ」「お直し」春「蜘蛛駕籠」「仏の遊び」「笠碁」夏「へっつい幽霊」「寝床」「三味線栗毛」秋「長屋の算術」「付き馬」「死神」冬「弥次郎」「味噌蔵」「五人廻し」春「長命」「宿屋の仇討」「鼠穴」夏「粗忽長屋」「青菜」「乳房榎~おせき口説き」秋「黄金の大黒」「一つ穴」「火事息子」冬「替り目」「夢金」「小言幸兵衛」春「唖の釣り」「三人旅」「猫の災難」夏「天災」「愛宕山」「抜け雀」秋「蛙茶番」「首提灯」「芝浜」(13年11月まで)

これだけ書き出しても、ネタの豊富さ、なによりも演り手の少ない珍しい噺、掘り起こしネタが多いことに圧倒される。喜多八師匠の熱量たるや、いかばりか。

同じく「柳家喜多八膝栗毛」(まむかいブックスギャラリー)から、3人の喜多八師匠にお詳しい方の文章の抜粋を並べて、きょうは締めたい。

「喜多八師匠の魅力」米長修

小三治師匠は喜多八師匠のことを「アレはどうも暗くてねエ」と言ってますが、そのネクラのところがたまらなく良いんです。私は明るく輝くひまわりよりも、夕暮れになまめく月見草のほうが好きなタイプなんです。そういえば、常連の男性客も、一癖ありげな人達ばかり、ご婦人客もお色気たっぷりの大年増、いや熟女ばかりで、年々増えているのが嬉しい限りです。

私にとって師匠の魅力は、静と動、鋭い目と笑顔、女の色気と男くささなどが瞬時に入れ変わり、聴き手の気持ちをつかむところです。好きなさわりは「乳房榎」で幼な児を質にとってじわりじわりと人妻に迫る悪党の凄み、「らくだ」の髪の毛を屑やが歯で食いちぎり、口の中から一本の毛をつまみ出すシーンです。以上、抜粋。

「喜多八さんと『三田落語会』」小澤栄三

十年ほど前、本寸法の「ビクター落語会」を企画した折に、顔付けした噺家の一人が喜多八師でした。(中略)お客様に良質な落語を廉価で聴いてもらいたい、と同時に、噺家も良い刺激を受けて芸を磨ける会にしたいと考えました。(中略)会にとって不可欠な存在である喜多八さんは、噺をまとめるのがピカ一で、感動するほどでした。(中略)

特に病気以降は二皮も三皮もむけて、何か達観したというか、ある種の領域に入った手ごたえを、私は感じています。最近の喜多八さんは大声、くすぐり、奇をてらった枕など邪魔なものをどんどん削ぎ落して、落語本体を素直に淡々と語っていますよね。だから聴く側も心地良くイメージをふくらましていける。以上、抜粋。

「草の根落語会と喜多八くん」山本進(落語評論家)

喜多八くんを初めて聴いたのは小八時代、「贋金」「軒づけ」など掛けるネタにひねくれた感じが出ていて、噺には独特の切れ味がありました。ヘンな噺を演るけど巧いな、だけど暗いなあというのが印象でした。

僕は、彼の模範的な巧さと本寸法の間が好きでね、同時にあの突拍子もmないところや、ふてくされたりひねくれているところが、逆にいい味を醸し出していると思います。「愛すべきふてくされ」とでも言うべきかな。そうやって自分の芸をずっと積み上げてきて、最近の喜多八くんはいつでも安心して聴いていられるようになりましたね。「鰻の幇間」「かんしゃく」「寝床」「近日息子」「鈴ヶ森」等々、どれも彼らしくかたまってきて「喜多八落語」とも言える領域になってきている。

だから、これからですね、今まで一生懸命やってきたことの収穫期は。種を蒔き、幹や枝を手入れし、雑草を抜いて、やっと実ってきたものを、いよいよ収穫するハーベストの時期だと思うんです。以上、抜粋。

「一生懸命やってきたことの収穫期」に、あっという間に早逝してしまった喜多八師匠。でもそれは、けして無駄なものではなかったことを、次の世代に引き継がれている気がします。あすは、喜多八師匠ご自身が考えていた「自分の落語」について、また関係書籍などの資料のお力をお借りして考えていこうと思います。

続く