「やりたいことをやる、素直な自分でいる」 どうもね!と軽く、寄席芸人・柳家権太楼の了見

柳家権太楼師匠の公式ツイッターで「柳家権太楼一門会中止のお詫びメッセージ」を観ました。

例年6月に日本橋公会堂で開催されている「柳家権太楼一門会」が、新型コロナウイルス感染防止のために中止になり、師匠の「お詫び」のメッセージが動画配信されました。

こんにちは。私の一門会が、やはり会場の都合でもってできなくなりました。残念でございます。けども、来年また頑張って、一門でもって、皆さんの前に出られると思っておりますので。いかがしておりますか。私はもう、どこにも出ない。ズーッと家にいますよ。それでこんな格好(Tシャツ)ですけれども勘弁してくださいませ。いずれまたね、皆でおしゃれして、一杯飲もうというような、そんな日が必ず来ると思うので、それまでの間、お互い様に辛抱しましょう。どうもね!

いかにも、権太楼師匠らしい笑顔に癒される、でも高座に上がりたいという気持ちが肚の中にたまっている、そんな温かいメッセージでした。

GWが重なる5月上席鈴本演芸場夜の部、毎年恒例となっていた「権太楼噺爆笑十夜」は、今年は10席「ネタ出し」で前売り指定席という発売をせず、20席を挙げて「その日のリクエストに応えます」という形で当日券のみの変更になったのも、このコロナ禍が続くことを予測しての席亭と師匠の判断によるものだろう。結局、1日も興行されることなく幻となった。

2018年に出版された、柳家権太楼著・長井好弘編「落語家魂!爆笑派・柳家権太楼の了見」(中央公論新社)に、東日本大震災のときのことが書かれている。以下、抜粋。

寄席ってぇのは、あたしたち噺家にとっての聖地です。修業、しくじり、憧れ。寄席には噺家のすべてがある。だから、出番があれば、いや出番がなくても寄席に出る。あの東日本大震災のときも同じでした。2011年3月11日、新宿末廣亭の昼の部。あたしはたまたまその年の1月に腎臓がんの手術をして、そのあと抗がん剤治療が続いていたけど、少しでも体力をつけなきゃと、久々に寄席の出演を決め、ちょうどその日が初日でした。午後2時46分。あたしが新宿末廣亭の出番を終え、これから仲入休憩というとき、築65年、日本で最も古い木造の寄席が大きな悲鳴をあげたのです。地震だ、それも普通の揺れじゃない。大地震?大災害?こりゃあ大変だ!

最初に考えたのは「俺がしっかりしなきゃ」ということです。そのとき、楽屋にいたのはお囃子さんが2人、前座が5人、あとは二ツ目と若い真打がいたかいないか。とにかく、あたしがいちばん上だったんですよ。こんなひどい揺れが続いたら、全館木造の末廣亭は全壊しちゃうかもしれない。ぐしゃぐしゃっと上から潰れるか、横揺れでやられるか…。まず、前座さんに窓を開けさせて、みんなの逃げ道を作らなきゃ!「大太鼓がぶっ倒れるぞ。二人で押さえろ」「お囃子さんは壁の隅にいなさい」「窓は開けたから、座布団で頭を守れ!」(中略)

しばらくして、ようやく揺れがおさまった。仲入休憩の後、興行を再開すると、客席は異様な高揚感に包まれていました。高座に上がった噺家が「地震、大変でしたね」と言うだけで、「ワーッ!」と大きな歓声が湧くんです。「逃げるより、皆と一緒のほうが安心だ」という気持ちだったのかもしれません。(中略)次の日、寄席は当然休みだろうと思うでしょ。ところが、上野鈴本演芸場以外の3軒が「やります」って。上野鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場と、東京には「定席」と呼ばれる寄席が4軒あって、ほぼ年中無休で営業しているのは、落語ファンならだれでも知っています。でもね、震災の翌日ですよ。寄席は当然休みと思うじゃないですか。(中略)

3月中席(11日~20日)の10日間は、本当にお客さんが来なかった。特に夜の部の入りが悪かった。数少ない観客は、こっちがどんなこと言っても、笑ってくれない。でもね、あたしはそれでいんだと思いました。寄席が毎日やっていたからこそ、数は少ないかもしれないけど、それぞれの境遇も思いも別だろうけど、東京の被災者の方々が落語や漫才を聞きながら、同じ時間を共有することができたと思うんです。あのときは、あたしたち出演者も「ウケよう」なんて考えは毛頭なかった。ただ、ちゃんと落語をやる。漫才もその他の色物も、己の持ち時間の中できちんと芸を見せていました。(中略)

それから何カ月も、落語会は不入り続きでした。世間の風潮で、歌舞音曲の自粛なんてことも起こり出す。ずいぶんとキャンセルもありました。あたしの独演会なんかも、ずいぶんなくなりましたよ。そんな中、客が入ろうが入るまいが、寄席だけは毎日営業していたんです。笑わない、いや、心から笑うことができない観客の前で、あたしたちは普段と同じ、時には普段以上にきっちりと落語を演じ続けました。お客さんが「助けて」と目で訴えてきても、あたしたちが助けることなんてできませんよ。できるのは、ただ、ちゃんと落語を喋るということだけ。(中略)

その年の秋、あたしに芸術選奨文部科学大臣賞を、という声がかかりました。本当にうれしかった。芸術選奨は、あの災害を生き抜いたご褒美かなと思いました。あたしたちは寄席を拠点に、自分たちしかできないやり方で被災者の方々を元気づけてきたつもりです。そのご褒美を、寄席の仲間を代表していただけるんだと思ったんです。翌年3月の授賞式のとき、「皆を代表しての挨拶は、喋り慣れてる噺家さんがいいですから」と頼まれたんです。何を喋ろうか、まず思い浮かんだのが、「3・11」以降の寄席の状況でした。

「あたしは寄席芸人です。3・11以降の新宿末廣亭はこういうことをしています。こうやってあたしたちも出ていました。そのことへのご褒美じゃないかと思います。あたしばかりじゃない。みんな、頑張ったんですよ」。あの地震とそれ以降の寄席の微動だにしない姿勢が、あたしたちに演芸家としての誇りを持たせてくれた。寄席の芸人でよかったと思いました。寄席芸人の代表としてもらったのだとしたら、これほどうれしい賞はありませんよ。「客が来るなら、ちゃんとやる」。考えてみれば当たり前のことだけど、寄席っていいなあ、噺家でよかったなあと思います。以上、抜粋。

カッコイイ!寄席芸人って、カッコイイ。「寄席っていいなあ、噺家でよかったなあ」という師匠のお気持ち。大震災とコロナ禍は全く異なる性格のものであることは重々承知であるが、この新型コロナウイルスの感染拡大が少しずつ収束していったら、徐々でいいから間隔をあけた座席などの工夫で噺家ほか芸人さんが高座に上がる場を作ってほしい。そんな世の中の空気になることを希望します。コロナが完全に収まっていないのに、ライブの演芸なんて不謹慎、非国民という空気だけには絶対なってほしくない。今のオンラインの配信はあくまで「つなぎ」であることを再確認したいです。生の高座あっての寄席芸人、そして演芸ファンで成り立つ、以前の状況に戻れるようにしてほしいと切に願う。

なんか、理屈っぽくて、ごめんなさい。じゃぁ、実際に「寄席」や「高座」があることが、いかに大事か。具体的に権太楼師匠が述べている「東京かわら版」2014年1月号の「今月のインタビュー」から抜粋。紫綬褒章を受章された翌年のお正月号です。

(「代書屋」や「宗論」など軽い噺について)年寄りの噺家さんが、若い人が演る噺をやっているよ、という楽しさにつきるかな。寄席という世界にはそういう楽しみがあるんです。こんなくだらねえ噺してるわ、っていう。例えば、先代の小さんが「道具屋」とか「たぬき」だとか、軽い噺をちょこちょこっとやって、すっといなくなっちゃう、柳昇師匠が出てきて「カラオケ病院」みたいな噺をずっと演る、「柳昇さんって面白いわあ~」っていうそれだけのことでしょう?「宗論」はそういうネタですよ。「あ、権太楼さんて面白い」って思っていただければ。ストーリーを精査して突き詰めていくのとは対極にある馬鹿馬鹿しい噺。

落語の内容なんかどうでもいいことで。「面白かったねえ、どんな噺だったっけ、忘れたね!」というような(笑)。そういう落語もたくさんあるでしょう?寄席育ちの人にしかできない、責任のない落語がやれる楽しさね。責任のあるのはトリだけ。落語会は(高座に)責任がある。それがいいんんじゃにかなあ。「鰍沢」や「芝浜」は四番バッターなんです。「代書屋」や「宗論」は打順でいうと二番か七番くらい。必ずヒット、送りバントみたいなのも仕事としているんだ。それは寄席という一つの世界。(中略)

打順で二番のところで、「幾代餅」とかやられちゃうと、空振り三振なんだよね。そこはそんな噺を演るところじゃない。あとはフラ。個性ですよね。「ガーコン」のおじさんは、どこで演っても「ガーコン」なんだけど、ちゃあんと二番バッターの「ガーコン」も出来るし、トリの「ガーコン」もできるんだ。以上、抜粋。

いかに芸人さんにとって、寄席が大切か。逆に、演芸ファンにとっての寄席の魅力はなにか。よくわかるインタビューではないかと思う。これは「権太楼の了見」というより、「芸人の了見」そのものだと思います。そこで大事なのは、師匠もおっしゃっている「フラ」であり、「個性」なのだと思います。「これぞ!権太楼の了見」と思えるエピソードを、2006年出版、柳家権太楼著(聞き手:塚越孝)「権太楼の大落語論」(彩流社)から抜粋します。

「お達者くらぶ」(NHK教育テレビ、80年~88年)は6年ぐらいかな。神田山陽(二代目、00年没)と3年。それから三崎千恵子さん(12年没)と3年。それが終わって、今度はNHKラジオの「土曜サロン」(93年~99年)がはじまった。アナウンサーの広瀬久美子さんと一緒に。4、5年ぐらいやりましたかね。あれはね、広瀬さんの番組ですからね、あの「土曜サロン」は。で、あの方は「あたしが一番、喋りは上手いよ」っていう人です。「噺家くんだりと、アタシが歩調を合わせると思ったら大きな間違いよ」っていうふうな印象を、面と向かってやってたときに受けた。「セコい、上っ面なお世辞を言おうもんなら、アタシは聞かないよ」っていう形になった。

それを見て俺は、「どうしようかな?」って思ったの。で、「喋るのよそう!」と。「この番組は広瀬さんの番組なんだ。そこに俺みたいのがちょっかい出したtって、どうせ潰されるのがオチだ」と思ったからね。で、「三か月間はいっさい喋んない!」ということをやったのよ。番組の2時間は。ただ、頷くだけ。「わあー、そうですかあ…」ってね。これをわれわれの世界では、「感心バカ」っていうんです。そういう話術があるのよ。

これはヨイショの方法の一つ。「なるほど、なるほど…」って感心しかない。やり方としてツッコミはしない。それで、ずーっとやってたんですよ、三か月。そうしたら、ヒロクミさんの旦那が、NHKのプロデューサーなんですけどね、笑福亭仁鶴さんが司会の「バラエティー生活笑百科」(85年~現在も放送中)という番組を作った人です。その旦那が、どう言ったのかは知らないけど、ヒロクミさんに「おまえ、あの権太楼って、わざとやってんだろう」「何を?」「だって、アイツぜんぜん喋んないじゃないか。相当、考えてるぞ。気をつけろ」って。

それでヒロクミさんが、「あんたそうなの?」って聞いてきたから。「そうですよ」って。「だって、自分が喋り上手いと思ってるんじゃないですか。だから、俺が対抗しようなんて思ったら、こっちが弾かれるのわかってるんです」「遠慮してたの?」「遠慮なんかしてません。ただ、自分のポジションを決めただけです」って。そうしたら、ヒロクミさんが、「そういうの、やんないでくれる」って言うから、「じゃあ。こういきましょうか」って、それからやりとりを違う形に変えたんです。ようやく番組がはじまりましたね。

それで思い出すのが、「大伴家持」事件。まあ、事件というほどでもないですけど、俺がハガキを「字が読めないからね。勉強できねえからなあ。国語なんて成績が2しかないんだ」って。で、「あ、これは大伴の…イエモチかなあ」ってね。事前になんの打ち合わせもしてないんだから。「アンタ、いま、なんて言ったの?」「イエモチ」「ヤカモチでしょ!」「あ、そう。俺、知らないんだよ。ごめん。読み間違い」「いや、あなた、噺家さんだから、わざとそう言ったのよねえ」って言ってきたから、「そうです」と言ったら絶対負けだと思ったから、ましてやラジオは違うと思ってたから、「いや、ほんとに間違いました。わたしは無知です。申し訳ない。それはわたしの教養のなさですから。すみませんでした」って。「またそうやって、芸人さんだから、そうやってえ」「そういうところで、あなた、言うもんじゃないですよ。番組のなかで」。

「知らないことに対しては知らないとわたしははっきり言ってる。正直に言ってることに対して…芸人だからって、そこまでして笑いをとろうとは思わないし、それは違うんじゃないですか」ってね。「ああ、これはクレームが来るなあ」って、真面目な人たちしか聴かない番組だからね。「もうダメになるだろうなあ…」って思った。そうしたら、逆になるわけですよ、リスナーは。「そういえば、わかんないやつは、もしかしたらあれを『イエモチ』と読んでいるかもしれない」というハガキが来たの。以上、抜粋。

まず、権太楼師匠の芸人としての曲げない信念、稔侍に拍手喝采を送りたいです。自分のポジションを決める。すごいです。あと、感じたのは広瀬久美子さんのような個性の強いアナウンサーは今のNHKからは消えてしまったなあ。古くは宮田輝、高橋圭三、鈴木健二・・・。公共放送という巨大組織の中で、そういう人材は邪魔者扱いされる時代になってしまった。ディレクターもそう。和田勉、吉田直哉、佐々木昭一郎、相田洋・・・。コンプライアンスという目に見えない縛りによって、個性や才能が潰れていく。残念なことです。

最後に、再び「落語家魂!爆笑派・柳家権太楼の了見」(中央公論新社)から、「おわり」の部分の抜粋で締めたいと思います。

私の落語の原点は、小学校5年のときの絵の授業です。当時、火の用心をテーマにした絵を描いてこいと言われ、私は、薄暗い雲を背景に、町並みの屋根から火柱が立つ光景を描き、その上に真っ赤な絵の具で「火の用心」と書いて提出しました。クラス全員の前で先生に怒られました。「こんな絵を描くやつがあるか。描き直してこい!」。私はしかたなく、スポーツ新聞の野球のホームスチールの写真の“油断大敵”とあった記事をハトロン紙に写して、エンピツで下書きし、その絵に塗り絵のように絵の具で色を付けて、もう一度、先生のところへ持って行きました。

「うまいじゃないか。ちゃんとできるじゃないか」。何も知らない先生は、今度は手放しで褒めてくれました。でも、そのとき、私は子供ながらに思ったのです。「この絵は違う。僕の絵は、前の日にみんなの前で罵倒されたほうなんだ。僕はもう、二度と絵を描かない…」。私の心を踏みにじった一枚の絵。その後、私は「本当のことってなんだろう。素直な心ってなんだろう」と自分自身に問いかけました。あの絵は、私の人生を変えた絵だったのです。

やりたいことをやる。素直な自分でいる―。

他人から「権太楼はわがままなヤツだ」と思われるかもしれない。いや、みんな思っているでしょう。それでいいんです。あのとき、私は決めたのだから。71歳まで生きてきた証は、幼い少年の心を潰した一枚の絵の中にあります。あの小賢しい絵を褒められたときの「いや、違う。この絵は僕の絵じゃない」という思いが、すべての出発点なのです。以上、抜粋。

これを読んで、僕は自分の中学校時代を思い出した。通信簿の成績で、美術は3か4だった。ただ、2年生のとき僕のクラスだけ美術の授業が非常勤講師担当になった。そして、その教師は一学期から三学期まで、私の美術の成績にずっと「5」をつけてくれた。そして、授業中も「あなたの絵は個性的だ。私はとてもいいと思う。批判されることもあるかもしれないが、あなたはそれを貫きなさい」と言ってくれた。結局、美大に進んで美術の道を歩むことはなかったが、その精神はずっと大切にしている。

ちなみに、権太楼師匠が今年の爆笑十夜に挙げていた幻のリクエスト候補20演目は、「火焔太鼓」「鼠穴」「代書屋」「幾代餅」「芝浜」「井戸の茶碗」「宿屋の仇討」「疝気の虫」「居残り佐平次」「一人酒盛」「佃祭」「百年目」「寝床」「茶の湯」「笠碁」「天狗裁き」「試し酒」「御神酒徳利」「不動坊」「鰍沢」。なかに「代書屋」と「疝気の虫」があるのがいいですね。寄席が再開し、「ジャンバラヤ」なんかも聴きたいなあ。師匠のおっしゃる通り、お互い様辛抱しましょう。