「つい笑ってしまう。それが落語」 柳家小三治(4)

テレビ北海道のネット配信で「柳家小三治からのメッセージ」を観ました。(2020・04・25)

「つい笑ってしまう。それが落語」(3)では師匠・柳家小さんとの関係から、小三治落語の魅力について、広瀬和生さんの著書の文章とインタビュー、「東京かわら版」のバックナンバーからのインタビュー、さらに去年岩波書店から出版された自伝など貴重な資料から抜粋させていただき、考えてみました。

きょうからは、師匠・柳家小さんと全く違う意味で影響力のあったTBS落語研究会のプロデューサー・白井良幹さん(2005年没)との関係から、小三治落語の魅力について考えてみたいと思います。TBS落語研究会が収録した小三治師匠の高座は、2007年「柳家小三治」12年「柳家小三治 大全 上」13年「柳家小三治 大全 下」というタイトルでDVD-BOXが©TBS・小学館で発売されていますが、そこにあるブックレットを中心に、「東京かわら版」のバックナンバー、広瀬和生著「なぜ『小三治』の落語は面白いのか?」などからも抜粋させていただき、僕自身の思い出も少々、交えながら考えていきたいと思います。

白井さんご自身が控えめで裏方に徹する職人気質の方であったため、情報の出自がDVD-BOX©TBS・小学館のブックレットにかなり頼ることをお許しください。また、資料を読み込めば読み込むほど、落語プロデューサー・白井良幹さんの素晴らしさが浮き上がってきて、伝えたいことが膨れ上がってしまいました。どうしても欠かせない部分に絞り込んだつもりですが、きょうから3日に分けて、小三治師匠と白井良幹さんの関係性の素晴らしさについて、考えられればと思います。その点もご容赦ください。

【落語研究会】

1905年(明治38年)に三遊亭圓朝、初代談洲楼燕枝亡きあと、四代目圓喬・初代圓右・二代目小圓朝・初代圓左・四代目圓蔵の三遊派5人に三代目柳家小さんが加わり、本格派の研鑽を目的に落語研究会を旗揚げ(第一次)。以後、紆余曲折あり、第四次が1948年に発足し、当時の正蔵、柳橋、金馬、文楽、圓歌、志ん生、圓生らが出演してしたが、放送局主体のホール落語に押され、噺家自身による手弁当の同人会は地盤沈下、58年にピリオド。それが、TBSによって68年に復活、テレビ番組の収録も兼ねる形で第五次がスタートし、今日に至る。

【白井良幹】(1920~2005)

TBS落語研究会発足当時から担当。ディレクターでもあり、プロデューサーでもあった。演者たちからは「リョウカンさん」と呼ばれ親しまれていたが、「よしもと」と読む。07年に発売された小三治初のDVD-BOXを企画したのも彼だが、2007年9月発売を前に、05年10月20日逝去。享年八十五。

僕が初めて国立劇場小劇場で開かれている落語研究会に行ったのは大学2年か3年のときだった。きっかけは当時追いかけていた古今亭志ん朝師匠が出演するからだった。80年代、志ん朝・小三治は研究会の二枚看板で、毎月どちらかがほぼ出ている、出ていないときにも上方から米朝師匠や枝雀師匠が出演し、また小さん師匠も円熟期だったので、毎月通っていた。当時は常連席券を1年分、まとめて買うシステムで、余った席は来月分を会場で前売りしていた。当時の切符を見るとA席2200円、B席2000円。時代を感じる。

その後、僕は就職し、東京を離れたので遠ざかったが、92年に戻ってくると、再び常連席を求め(朝早くにTBS本社に並んだ)、さすがにサラリーマンなので都合がつかないこともあったが、両親も落語好きだったので、無駄になることはなかった。ただ、01年に志ん朝師匠が亡くなり、小三治師匠の出演も減ってきたので常連席購入はやめた。毎年新規発売だった常連席券は既得権益のような形になり、前年の常連が購入を優先させるシステムに変更になった。また、ヤフオク転売などが問題となり、来月の会場前売りも廃止。常連以外は当日券を求めて開場前に並ぶこととなり、最近はほとんど足を運んでいない。

前置きが長くなった。僕が強烈に小三治師匠の高座で印象に残っているのは「芝浜」で、全くマクラなく、高座に上がると「お前さん、起きておくれ」と始まった。調べてみると、93年11月19日の第305回落語研究会で、その映像は2007年に発売された「柳家小三治」に収めされている。(研究会では79年11月の第139回でも演っているが、DVDでは、この一席しか観ることができない)。当時、僕は29歳。気迫籠った高座に胸を突き抜かれた。小三治師匠がいきついた、いまのステージではないことは確かだ。DVD-BOXのブックレットでも小三治師匠はこう言っている。以下、抜粋。

私の「芝浜」ですが、このDVDより今のほうがずっと面白い。この2月(07年2月)に盛岡でやった「芝浜」は、四代目小さん師匠のおもむきで、声を張り上げるくだりなんか一つもなかった。そしたらある人が、「言葉にならないくらい良かった」って言ってくれました。じつは私も、「ああ、噺はいつもこういうふうにやりたいな」って感じてたくらいの出来だったから、「え、わかってくれたお客さんがいたのか」と思いました。以上、抜粋。

落語研究会と小三治師匠の出会いは半世紀以上前に遡る。2019年刊行「どこからお話ししましょうか 柳家小三治自伝」(岩波書店)からの抜粋。

私が最初に出たのは1968年7月25日、「たらちめ」でしたか。二ツ目のときですね。お声がかかったときは、すごく緊張しました。名人、上手と言われるようなかたが出ていた特別な会でしたから。

そこにいたのが、白井良幹さんです。私の落語をつくっていった人ですねえ。私のアドバイザーでした。あの人は、いわゆる「放送局の人」じゃないんです。放送局の人というのは、タイプとして、いい番組をつくって評判を得て、視聴率を得て自分の評判も上がって地位も上がっていくっていうのが、ふつうですよね。しかも、制作側にいる人間だったら、「これは誰がつくった?白井がつくった?おおー、やるじゃないか」って言われるような人になりたいのが、世の中の常ですよ。でも、あの人はそういう人じゃない。以上、抜粋。

13年発売のDVD-BOX「柳家小三治 大全 下」©TBS・小学館のブックレットに、白井さんの妻である白井春枝さん(13年ご逝去)が、「特別寄稿 師匠、そして私の夫」と題した文章の中に、こうある。以下、抜粋。

白井は家の内と外と、全然違う人でした。家では会社のことや仕事について一切話したことがございませんでした。国立劇場での「落語研究会」を担当していることなどは、それとなく知ったのですが、実際にはどのようなことをしているのか、詳細はわかりませんでした。

師匠が「落語研究会」に出演されたときは、そのビデオを必ず私にも見せてくれ、良いところをほんの一言ふた言で説明してくれるのでした。そして「これは良いから見なさい」と言って、師匠の噺と映像ともにこれはおすすめ、というビデオは、必ず見せてくれました。ですから、私はただの主婦でありながら、落語については感性が磨かれたと思っております。ラジオから流れる落語を聴きながら、「この落語家さんはうまくなってきたわ」とか「この人はまだまだだわ」などと思っていると、主人のもらす評と一致するのです。もちろん主人の評は厳しくて、「襲名はしたけど、芸がともなっていない」「あれでもうかたまってしまったな」「噺がつまらない」などと、批判することもよくありました。以上、抜粋。

同じく「柳家小三治 大全 下」©TBS・小学館のブックレットから「落語研究会と白井良幹さん」で小三治師匠は白井さんの人柄をこう語っている。以下、抜粋。

白井さん、あの人はうるせいジジイでね。ジジイというより友軍です。戦友というんじゃなくて、友軍。戦友というのは同じ地べたを、いつ弾が来るかわからないような状況下を同じ鉄砲を持って進んでいくんでしょうけど、友軍というのは味方同士でも、こっちは陸軍で向こうは空軍というか、自分とはちょっと違うところにいるけど、味方だなあという感じです。(中略)

TBSの社員なんですよ、あの人は。結婚したのが遅かったんだけど、会社から「おめでとう」と結婚祝いに金一封が出た。そしたら、「これは私事ですからいただくわけにはまいりません」て返しちゃったそうです。返すことないじゃねぇかよ、だったらおれがもらえればよかったと思いましたがね、心がお侍だよ。江戸っ子だねえ。

でも豪放磊落な人というかんじじゃないんですよ。じわじわ真面目というか、下のほうからなんとなくじめーっと近寄ってきて、ぼそぼそ、ぼそぼそなんか言う。私は先祖が東北の人間ですから、わりにそういう地味目、陰気目は共通点がある。あの人は後で聞いたら茨城の人だって言ってましたが、茨城もやや東北に向かってますから、強情だけけど地味な人が多いんだね。以上、抜粋。

いまや小三治師匠の定番商品ともいえる「小言念仏」は、白井さんの勧めでネタおろしした。「東京かわら版」2007年10月号「巻頭インタビュー 柳家小三治」から抜粋。

小三治 覚えてるのは、白井さんに「小言念仏」をやってくださいと言われ「俺があんな噺を?まったく冗談じゃないよ」って思っていたのが、いつの間にか私の売り物みたいなネタになってしまった。あれのおかげで相当生活支えてもらいましたね(笑)。

―どなたかに習いましたか。

小三治 習いません。まあ、演るなら先代の金馬師匠を母体にして演るのかなぁ、って思ったんですけども。それからやはり亡くなった三升家勝太郎さんという人の噺がとても面白かった。勝太郎さんのように演りたかった。金馬師匠のは、いわゆるエンターテインメントというんでしょうかねえ、イタリアオペラのように、胸を張って客席中に噺を巻き散らかす。勝太郎さんのはね、聞こえる人にしか聞こえいみたいなね、うん。それであなたもよくご存じの「ドジョウ屋ァ~」って怒鳴るところも全然怒らないの。声が大きくならない。

―大きい声で呼ばなくても伝わるのかしら。

小三治 エンターテインメントの面から考えればそうなんですけど…。とにかくこぢんまりとやっている人が呼ぶ必要を感じちゃう、っていうおかしさがそこにあった。金馬師匠の場合は突然大きな声を出すっていうその滑稽さがお客を納得させるけど、呼ぶ声が大きい小さいではなくて、呼ばざるをえないという生活感っていうかねえ、そう、だからね、私はね、噺の中で一番好きなのは生活感なんですよ。以上、抜粋。

「小言念仏」については、「柳家小三治 大全 下」©TBS・小学館のブックレットで小三治師匠は白井さんとのやりとりをこう語っている。以下、抜粋。

「小言念仏」はあるとき、突然、「あれは合いそうですね。合いますよ」って言われた。「私には向きませんよ」って言うと、「いやいや、あなたには絶対です」って白井さんは確信を持って言ってくれました。どうしてそう思ったんでしょう。だいぶ拒否したんですけど、「そう?そこまで言うなら、しょうがねえや。やるだけやってみるか」って始めました。

白井さんは、「誰の」とは言いません。でも、言わなくても、「小言念仏」といえば、そのころは(三代目三遊亭)金馬師匠しか、ないようなもんでしたから。(中略)抜け道のひとつが、三升家勝太郎さんです。(中略)私がとるのはこっちだなと思って、それを目指してやったんですけど、結局は金馬師匠みたいな形になっちゃった。そこがまことにくやしい。残念だ。自分の性格もあって、そういう道に入ってっちゃったんでしょうけど、ほんとうはもう誰も聞かないぐらいの声で、いちばん前の人に向かって話しかける。いや、話しかけるっていうのがもう違う。話しかけちゃあ、いけなんですよ。(中略)

すると、四代目小さんの噺にも納得がいく。なんの変化もなくて、つらつらつらつら言葉を連ねていくだけだ。慣れない人は、言葉の表向きだけをとらえて飽きてしまう。ところが、その奥を聞いてみると実におかしい。勝太郎さんも結局、その流れだったんでしょう。(中略)

「小言念仏」をやれと言ってくれた白井さんには、ほんとにありがたいと思っています。よくやらせてくれた。あの人が言わなきゃ、生涯やらないですよ。あんなばかばかしい、屁みてぇな噺を。今や、私はそれでめし食ってるって言ってもいいぐらいです。高座でかけることはそんなにはないけど、あれはおもしれえやってお客さんが期待してくれているのも知ってます。期待されているからって、万たび「小言念仏」ばかりはやってませんよ(笑)。以上、抜粋。

07年刊行「柳家小三治 大全 下」©TBS・小学館のブックレットに、京須偕充さん(演芸評論家・ソニーミュージックダイレクト来福レーベル)は「こわいような… 柳家小三治と落語研究会 そして白井良幹」と題して、このように書いた。以下、抜粋。

こうして二人の信頼は固く結ばれ、落語研究会以外のことにも白井さんの意見を求めることが多くなった。1986年以来の上野・鈴本演芸場での柳家小三治独演会についても小三治さんはよく意見を仰いでいた。こわい人ではないが、一目置く人物が仕切る会だから居ずまいをただして向かう。小三治さんと白井さんと落語研究会とのトライアングルには、そんな絆が感じられる。それが広い意味での、ごく緩やかな「こわさ」に通じる。そこで「こわい」に“ような”が付いた。恐でもない怖でもない、「畏」に近い「こわさ」だろうか。「小言念仏」のネタ下ろし(初演)の場はおそらく寄席だったろうが、落語研究会での公開は真打昇進翌々年の1971年10月14日の第44回だった。以上、抜粋。

僕は小三治「小言念仏」は、この10年間で、カウントしたら10席聴いている。最近の高座が当然一番記憶に残っているが、19年1月新春国立名人会、18年12月の銀座ブロッサムの独演会、17年8月池袋演芸場八月上席昼トリ。このあたりの高座は、“勝太郎師匠の小言念仏”に近づいているのかもしれない。(師匠に、違うぞ!と言われそう)

「なむあみだぶー。どじょう屋ぁーっ!」のところも好きだが、「ええっ、ごとごと、言っています?ほら、苦しがって暴れているんだよ、そりゃ。面白えな。なむあみだぶー。だいぶ静かになったな、蓋取ってみろ。腹出してみんな浮いちゃった、はっははっははっ!ざまあみろ。なむあみだぶー」。はっははっははっ!ざまあみろ。なむあみだぶー。この「ざまあみろ」が堪らなく好きである。

あすへ続く。