落語を覚えりゃ話し方が上手くなるわけじゃぁない。でも、人の気持ちになって喋ることはできるような気がするんだ。
アスミックエンターテインメント/新潮社から発売されたDVDで映画「しゃべれども しゃべれども」を観た。
「つい笑ってしまう。それが落語 柳家小三治」は小休止。あすから再開することにして、きょうはお薦めの映画「しゃべれども しゃべれども」をご紹介します。
この映画が公開された(2007年5月 原作:佐藤多佳子 監督:平山秀幸 脚本:奥寺佐渡子)とき、僕は池袋の映画館で観た。シネ・リーブル池袋だった。もう涙がとめどもなく溢れて、どうしようもなかったのを覚えている。僕も口の利き方が下手くそで仕事では何度もしくじっていたからかもしれない。だが、そんな理屈ではなく、人間として、この映画に描かれている「人と人との心の交流」にただただ感激していたのだと思う。
本屋大賞受賞作家である佐藤多佳子さんの原作「しゃべれども しゃべれども」が新潮文庫になったとき(2000年)の、解説に文芸評論家の北山次郎さんがこのように書いている。以下、抜粋。
本書がもう文庫になるのかと思うと感慨深い。本書の元版が刊行されたのは1997年の夏だが、当時の興奮がまだ鮮やかに残っている。のちに本の雑誌でその年度のベスト1小説に輝いた長編でもある。では、それほどこの長編が突出していたのか。
ある意味で、話は簡単だ。対人恐怖症のために仕事をしくじりかけている青年がいる。口下手なために失恋した娘がいる。生意気なためにクラスで苛めにあっている小学生がいる。あがり症のためにマイクを前に座ると途端に無口になる野球解説者がいる。ようするに、自分を表現するのが苦手なために、周囲とぶつかっている人間たちだ。ひょんとしたことから彼らが若い落語家のもとに集まってくる。落語を覚えようというのだ。それが何の解決になるのか、誰にもわからないが、とにかくそういう展開にある。ところがなかなか落語は覚えないし、彼らの仲は悪いし、素人に教える若い落語家のほうにも恋と仕事の迷いがあるので(つまり人に落語を教えている場合ではない)、事態はうまい具合に進展しない。
本書はそういう話である。幼児虐待も出てこないし、派手な殺人事件も起こらない。ところがこれが実に読ませて飽きさせない。胸キュンの恋愛小説であり、涙ぼろぼろの克己の物語であり、そしてむくむくと元気の出てくる小説なのである。以上、抜粋。
原作の素晴らしさの上に、脚本と演出も素晴らしい。「東京かわら版」2007年5月号で、平山秀幸監督はこう語っている。以下、抜粋。
原作は吉祥寺だったんですけど、ロケハンを重ねていくうちに、やはり山の手より下町の方がいいだろうということになりまして。隅田川の両岸って陸から見ていると普通の川ですけど、川の中から船に乗ってみると雰囲気が全く違うんですね。それは僕も新しい発見でした。東京ってこんなふうに見えるんだ、って思いました。(中略)
現代物でしかも落語に焦点をあてた作品は「の・ようなもの」とかドラマの「タイガー&ドラゴン」くらいで、かなり数は限られていますよね。影響の有無よりも二ツ目さんってどういうものなのかよくわからなかった。だから一番最初の脚本作りは二ツ目さんに会うところからはじめました。
もちろん違いはあるけど、我々映画監督も下積みがあって食えなくて、っていう時代があるのは同じだし、共感するものもありましたよ。でも一番びっくりしたのは、真打ではなく二ツ目になるともうまわりから一人前と見なされるということ。大変だなあ、と思いましたね。以上、抜粋。
同じく「東京かわら版」07年4月号で主役の今昔亭三つ葉を演じる国分太一さんは以下のように語っている。
二ツ目さんですからある程度喋れて、喋り過ぎて悩んじゃってる役ですからね。そこに辿り着いてからのお芝居でしたから。かくし芸大会だったらねえ、落語だけやればいいじゃないですか。でもプロの三つ葉がやる落語ですから。以上、抜粋。
また「東京かわら版」07年6月号では師匠の今昔亭小三文を演じる伊東四朗さんがこのように語る。
僕は断ろうと思いましたよ。落語家の役なんてとても出来ない、高座のシーンもあるって言うし。「盲、蛇に怖じず」ってやつでね、今は言っちゃいけない言葉だけど。以上、抜粋。
制作側も出演者も、落語や落語家という職業に敬意をもって臨んでいる。それが人間ドラマとしての魅力だけではない、この映画が素晴らしいところではないか。一番好きな小三文師匠の言葉がある。三つ葉が「素人鰻」の稽古をつけてほしいと釣堀でお願いするところだ。
「数ばっかり増やしてどうするんだ。だいたい、お前さんは工夫ってものが足りませんよ。俺のオイシイところだけ取ってもダメなんだよ。頭悪いな。俺の噺の人物は俺がこさえたの。お前の噺、聴いてると俺がセコになったみたいで嫌なんだよな。お前の噺なんて誰も聴いてないじゃないか。向こうに聴く気がなかったら、いくらしゃべったって、しゃべってないのと同じだよ。ただしゃべりたいってんだったら、壁にでも向かってしゃべってな。」
最終盤で、映画は「火焔太鼓」がキーになる。
伊東四朗さんは前出のインタビューでこうも語っている。
一番難しいのは誰かの真似をしちゃいけないってことなんですよ。師匠の役だから、架空であってもね。「あれは誰のだよな」って思われちゃまずいわけですよ。やり様によっちゃあ志ん生さんのやり方でやってもいいんです。あの甲高い声で「えー、どうも」かなんか言ってね。でもそうもいかない。だからマクラから何から自分で考えたんですよ。結局一席覚えました。ほとんど映画では使われてませんけど。以上、抜粋。
国分太一さんも同様に前出のインタビューで語っている。
僕の演じる三つ葉の落語には面白みがないという設定の話なので、僕の落語を聴いてお客さんが途中で帰るシーンがあるんですけど、正直本当に腹が立ちました。せっかく覚えたのにどうして帰っちゃうの?って。そこはまさに三つ葉と同じ心境でした。ちゃんと落語を聴いてもらうのが最後の「火焔太鼓」だけだったんですよ。それまで人に落語を聴いてもらうシーンがなかったんです。稽古の時は三三師匠と僕の二人が差し向かいでずーっと延々とやっていましたし。でも三三師匠は僕の落語では絶対に笑わないので、お客さんの笑いがわからないんです。だからお客さんが笑っている間をとらなきゃいけないかな、と思いましたし、自分がやっていた「火焔太鼓」じゃないみたいでした。高座に上がって喋って、お客さんの笑いを間として待ってみる。あともうちょっと間を持てば、もっと笑ってくれるのかなっていう欲も出てきたり。以上、抜粋。
太鼓の埃をはたけと言われた小僧が、はたいているうちに「この太鼓の音いいな」と、ドンドコ、ドンドコドンと調子に乗って叩くところ。三百両を前にして、強気だった道具屋の甚兵衛の女房が、50両ずつ懐から出るのを見て、パニックになるところ。三つ葉の落語、つまりは国分太一さんの落語になっているからすごい。袖で聴いていた師匠・小三文の「お前にしかできない『火焔太鼓』があったろうが!下手な鉄砲、数打ちゃ当たる。当たり外れは風まかせ~」という台詞が忘れられない。
三つ葉の「話し方教室のようなもの」の生徒である関西弁でクラスになじめない小学生・優(森永悠希)と口下手ゆえに失恋した女性・五月(香里奈)が教わった「まんじゅうこわい」の発表会をする場面で、優が桂枝雀のVTRを何度も観て勉強した高座で客の爆笑をとったあと、五月はなんと、「まんじゅうこわいはやめます。一番好きな噺をやります」と言って「火焔太鼓」を一所懸命にしゃべりだす!もう、そこから僕の目は涙が溢れ出す。エンディングテーマソング、ゆずの「明日天気になぁれ」でエンドロールが流れている間、ずっと涙が止まらなくて困った。
是非、GWに映画「しゃべれども しゃべれども」を、DVDでご覧ください。