「つい笑ってしまう。それが落語」 柳家小三治(3)

テレビ北海道のネット配信で「柳家小三治からのメッセージ」を観ました。(2020・04・25)

きょうは小三治の師匠である五代目柳家小さんとの関係から、小三治師匠の魅力について考えたいと思います。

【五代目柳家小さん】(1915~2002)

33年、四代目柳家小さんに入門、栗之助。39年、二ツ目昇進、小きん。47年、真打昇進、九代目柳家小三治襲名。50年、五代目柳家小さん襲名。62年、67年芸術祭賞奨励賞。72年、落語協会会長就任(~96)。80年、紫綬褒章受章。87年、NHK放送文化賞受賞。89年、浅草芸能大賞。95年、落語家として初の人間国宝に認定。02年、没。享年87。息子は六代目柳家小さん。孫に柳家花緑。

僕自身の記憶を遡ると、TBS落語研究会に常連席で毎月通っていた80年代半ばの小さん師匠はまさに円熟期で、柳家が得意とする滑稽噺を中心に聴き、とても面白かった印象がある。就職して名古屋に勤務、東京に戻ってきたのが92年、紀伊國屋寄席にレギュラー出演していたが、その高座は80年代と比べると若い20代後半の青二才の僕にはちょっと物足りない印象を受けた。だが、晩年の小さんこそ、面白かったと小三治師匠は語っている。「東京かわら版」2019年12月号「朝日名人会ライヴシリーズCD六ヶ月連続発売記念『柳家小三治の会』レポート後篇」に、終演後の囲み取材の模様が掲載されている。以下、抜粋。

―以前から師匠が五代目の小さん師匠の高座は晩年が一番面白いとおっしゃっていて、小さん師匠の年齢を今、後ろから追いかけているわけですけど、その時の小さん師匠の年齢になった時「小さん師匠はこういう心持ちだったんだな」って気付いたりすることはありますか

小三治:あるでしょうね。あるでしょうけど、こういう時にこういう風に感じるんですってなことを聞き出したいんでしょうけども、そうはいかない!

一同 (笑)。

小三治:それはこっちが考えて心のなかで練っていくことで、人に話すべきことじゃない。でもさっきも高座の上で言いましたけど、棒読みでやっていくってことの素晴らしさ、これはね、役者でもそうです。器用に上手い人はね、もういらない。棒読みでよい。心さえ十分にあれば、棒読みの中にきっちり現れる。それだけですね。文句あるかってんだよ(笑)。以上、抜粋。

五代目小さん師匠の一門は、みんな、入門したら「道灌」を習う。その「道灌」と五代目にまつわる小三治師匠のエピソードを。2019年に刊行された「どこからお話ししましょうか 柳家小三治自伝」(岩波書店)から抜粋。

「道灌」というのは、どうやったっておもしろくない噺なんです。それを師匠がテレビかなんかで十二、三分でやっているのを聞くと、おもしろいんですねえ。とにかく聞いてて飽きない。納得させてくれる。なんでおもしろいんだろう。自分がやると、あまりにもおもしろなさすぎる。この距離を詰めるにはどうしたらいいだっていうのも、大きな壁でした。でも、「道灌」は一向におもしろくならなかった。以上、抜粋。

2014年に刊行された「なぜ『小三治』の落語は面白いのか?」(講談社)で、著者の広瀬和生さんは、師匠から「道灌」について、こんな話を引き出している。以下、抜粋。

「ご隠居さん、こんちは!」「誰かと思ったら八っつぁんかい、こっちへお上がりよ」っていう風にやっていた。それは、師匠の前でやったんじゃないけど、寄席でやってた。そうしたら、それも一言です。「お前の隠居さんと八っつぁんは、仲が良くねぇな」って言ったんですよ。もうホントにね、心臓が飛び出すような気持ちでしたね。片っぽは年寄りのご隠居さんで、片っぽは若い職人で、っていうのは、立派に描けていたと思うんです。でも、ダメなんです、それじゃ!仲が良くなきゃ、用もねぇのに来ねぇし、おう、よく来たな、って迎え入れやしないですよ。それで、「お前の顔を日に一度は見ないとどうも心持ちが悪くて」「あっしも隠居さんの顔見ないと…」「心持ちが悪いかい?」「いいえ、通じがつかねぇ」「バカなこと言うなよ」って、そういうことを言い合えるっていう、その仲の良さを理解するのに、何十年もかかりました。うん。ホントに何十年もかかりましたよ。だから、一つの噺を仕上げるってことはね、覚えたからもう出来上がり、じゃない。覚えたあと、何年も何年もかかって、その噺を、ああだったかな、こうだったかな、ってやっていく。だから「道灌」一つでね、噺家は一生終われますね。以上、抜粋。

小三治師匠の「道灌」、調べてみたら、僕はこの10年間で、2011年5月の大演芸まつり@国立演芸場、16年鈴本初席の2回。鈴本初席は弟子の三三師匠がトリで、小三治師匠はマクラを喋って、「安く買ったんだろう、家康だけに」の冗談オチだったのは覚えているが。隠居と八五郎の仲の良さ…に着目して二人の会話を聴いてはいない。まだまだ聴き方が浅いな、と思うこと自体、小三治師匠は嫌がるだろうけど。今後、80歳の人間国宝の「道灌」を聴く機会に恵まれますように。

で、「長短」でも、小三治師匠は師匠・小さんから「登場人物二人の関係性」という観点から、落語の有り様を学んだと語っている。「東京かわら版」2012年5月号の「今月のインタビュー 柳家小三治」から抜粋。

到達点がわからないから、到達しようとも思ってませんよね。ただ、もっと面白くなるはずだということかな。それはやっぱり師匠・小さんの影響でしょうね。二ツ目のころ、人形町末廣で「長短」をやって、長さんの台詞の時に客が「早く先へ行け!」って、その言葉がすごい短七っつぁんそのものだった。ということは、それだけこっちへのめって入ってきてたわけですよね。もしつまらなかったら、あんな切羽詰まった声は出さないでしょうから(笑)。楽屋で聞いてた仲間もその声聞いて笑っていましたけどね。だからこれでいいんだなと思っていましたよ。

ところが師匠の前で「長短」をやって、「お前の噺は面白くねえな」って言われた。「お前の『長短』は」って言われたんじゃないんです。「お前の噺は面白くねえな」って言われたんです。客は面白いと言っても師匠からみたら面白くねえんだ。じゃあ面白いっていうのは一体なんだろう。噺家になって10年経ってようが、まるで初心者のように「面白くするにはどうしたらいいんだ」って、考えますよね。こうかしらああかしらって、ずっとその連続。葛藤の繰り返しです。以上、抜粋。

再び「どこからお話ししましょうか 柳家小三治自伝」(岩波書店)から抜粋。

あの一言(「お前の噺は面白くねえな」)がすべての始まりです…と今思い至ると、涙が出てきますねえ。よくあのとき、小さんは私を言い表してくれた。こう言えばこいつは一人前になるぞ、なんて思ってないんですよ。そんな腹案、なんにもない。だからこそ、重たいですよね。

小さんは、おもしろさとはなにか、とかは言わない。考えてないんです。(六代目三遊亭)圓生師匠には、私は前座のうちから稽古をつけていただきました。「あすんところはねえ、煙管をこう構えて、ポンとたたいて、そこでふっと言う」っていうような、いろいろな方法論をやってくれたりしたはずです。そうやっておぼえたことは圓生師匠からもずいぶんありましたけど、圓生師匠は「お前さんのはなしはおもしろくないな」っていう言い方をしたことがない。

だから私は、同時代の両極端のスタイルの師匠、あるいは教え方に対する考え方の両極端と言ってもいい二人の師匠に首つっこんだわけで、ほんとうにありがたかった。以上、抜粋。

小三治「長短」は、この10年間で、2014年11月大井町、19年有楽町の独演会で2回。このネタは以前から他の噺家さんで時折、「長さんは与太郎じゃないんだよなあ」と思うことがあって、小三治師匠には全くそれを感じなくて(当たり前だが)好きなネタである。

さらに、同著では「粗忽長屋」で教えられたことにも言及している。以下、抜粋。

「粗忽長屋」という噺は、私がやっているのを師匠が楽屋で聞いていたんでしょうねえ。「お前は最初からおしまいまで、全部受けようとしているな。違うぞ。あれじゃあ、お客が疲れちゃう」って言われました。そういうことが、師匠の私に対する教えだったんでしょうか。落語はひとつも教えてくれませんでしたけど。(中略)

「粗忽長屋」をやってみると、最初からおしまいまで、お客さんに受けるための仕掛けが次々と出てくるんです。くやしいから全部受けようと思って、かなり完成させたんですけどね。そうしたら、師匠にビシッとやられた。噺ってものは最初ボソボソやってても、いちばん最後、ウワーって盛り上がっておしまいになるもんだ。お前の噺は最初から盛り上げ盛り上げしている。あれじゃあ、自分もくたびれ、客もくたびれちゃうじゃないか、と。だから、私はほんとに師匠の言う通りやっていたといってもいい。師匠はそのときどきで、なにかにつけ、気になったことを言ってくれてたみたいです。それを私は再現してきたっていうんでしょうか。以上、抜粋。

「粗忽長屋」に関しては、この10年で6席聴いているが、小三治師匠のおっしゃっていることが腑に落ちる。特に2014年8月池袋演芸場の上席昼トリでの高座は、程のよい滑稽味が印象に残っている。

最後に、「東京かわら版」2019年12月号「朝日名人会ライヴシリーズCD六ヶ月連続発売記念『柳家小三治の会』レポート後篇」の終演後の囲み取材から抜粋。

「お前の噺は面白くない」ってのは「お前の了見、考えていること、やろうとしていること、これから進もうとしていることは皆違うぞ」っていうことを言われたのかもわからない。だとしたらばこんなひどいことありますか!教えてよ!でもそれはもし言ったとしても師匠には教えられない。私の弟子に言われたって教えられない。自分でつかむしかつかみようがないじゃないですか。生きてて、感じることしかないよね。日々の歩みを進めていく中にそういうものを感じて、自分でゲットしていくしかないでしょうね、きっとね。だからまだまだ、とてもゲットなんかしてないですよ。

勉強、勉強。日々の暮らしそのもの、まるごと勉強だと小三治師匠は僕に教えてくれているような気がしてならない。