木馬亭の灯は消えず 浪曲定席50周年

木馬亭で「浪曲定席50周年記念公演」を観た。(2020・03・04)

※4月の木馬亭定席は4月3日~7日の千穐楽まで、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、中止になりました。

20数年前、まだ実験放送だったハイビジョンの特番で新宿末廣亭の日常を描くドキュメンタリーを提案した。しかし、上司は何度もダメ出しをし、そのたびに当時の席亭・杉田恭子さんにお話を伺いに通い、提案の書き直しをした。そのときの上司が言った。「木馬亭のドキュメントはどうだ。浪花節、いいぞ。人間ドラマがある」。当時、落語一辺倒だった僕は、講談も浪曲も、その魅力に気づいておらず、後年知ることになるのだが、上司の言葉を無視し、結局は末廣亭の提案も成立しなかった。苦い思い出である。そのことが今も頭の隅に残っていて、「あのとき、ちょっと木馬亭に足を運んで、その人間ドラマの魅力を耳と目で確かめておけば・・・」。後悔している。

木馬亭50周年。1970年5月に浪曲定席がスタートしたそうだ。その僕の苦い思い出は、ちょうどその半分のところにあったのか。明治から続く浅草最古の興行社「根岸興行部」は、浅草でストリップ劇場や映画館などいくつもの小屋を経営していた。去年12月に91歳で亡くなった大女将・根岸京子さんは父親が勤務していた縁で、社長夫人にみこまれ、後に四代目社長となる息子の浜吉さんと結婚。浜吉・京子夫婦に浪曲師の東家楽浦師と三門博師が木馬館の1階を浪曲定席にしてくれないかと頼み込んだのがきっかけだったとチラシに書いてある。

15日間昼夜連続興行を打つと、連日大盛況。日本浪曲協会も73年から正式に番組編成に参加。地方の大きな会場の仕事の方が儲かる、寄席だと芸が小さくなると出演していなかった大看板の浪曲師も、仕事がなくなり廃業していた元浪曲師も加わった、と元「月刊浪曲」編集長の布目英一さんが書いている。

だが、80年代になると、浪曲師と曲師の高齢化、観客動員数の激減があって、昼夜興行が昼のみになり、15日間が10日間、そして7日間と縮小された。夫の浜吉さんが亡くなるとき、京子さんは「大丈夫だよ!木馬亭は守るから!」と叫び、浪曲定席の経営に奮闘した。その努力によって、惜しくも若くして亡くなった国本武春が世に出、また現在、脚光を浴びている玉川奈々福や太福が育っていった。そのおかげで、浪曲ブーム復活へ道が見えている。現社長の豊さんが「この定席の灯は絶やさない」と語ったと、「浅草の顔」根岸京子さんの朝日新聞の追悼記事にあった。

チラシの裏に、日本浪曲協会の東家三楽会長と木馬亭のコメントが「浪曲の定席が浅草にある。木馬亭浪曲定席50周年」という見出しを挟んで掲載されている。足並みを揃えて浪曲を守り続けたいという心意気。客席に活気が戻ってきた。

東家千春/沢村豊子 江戸の初雪

港家小ゆき/沢村美舟 最強主婦伝説 サラダ太閤記

木村勝千代/沢村豊子 鉢かつぎ姫

玉川太福/沢村美舟 悲しみは埼玉に向けて(三遊亭円丈作)

中入り

鳳舞衣子/伊丹秀敏 元禄瓦版

田辺遊鶴(講談) 山田長政遠征記

天光軒満月/伊丹秀敏 涙の門出 召集令

玉川奈々福/沢村豊子 ソメイヨシノ縁起