松之丞は高みを挑み続ける~ぎんざ木挽亭

歌舞伎座ギャラリーで「ぎんざ木挽亭 神田松之丞の会」を観た。(2019・06・24)

吉原は虚と実が入り混じった世界と松之丞が言った。正確に言うと、虚が90%以上。花魁が何人もの男に「あなただけが本気よ」と騙し、客も嘘とはわかっていながら、「もしかしたら、俺だけは本気なのかも」と勘違いする。その妄想も入ったワンダーランドというのが廓ではなかったのだろうか。一瞬でもいいから、この吉原だけでも「俺はもてている」と思える快感。その駆け引きを愉しむ。実に粋な世界だなぁと思う。

落語の世界では、「三枚起請」「五人廻し」「文違い」「お茶汲み」「お見立て」「首ったけ」など、その騙し騙されを笑いに昇華する。騙される側が多い客が、逆に仕返しをする「付き馬」や「突き落とし」。もてるはずのない与太郎がもてる「錦の袈裟」や、現実と幻想の区別がつかなくなって身を持ち崩す若旦那が主人公の「湯屋番」「船徳」。兎に角、「虚がほとんどの」吉原を笑い飛ばす噺が中心で、「紺屋高尾」のような花魁が本気になって身分違いの恋が成就する噺は例外だ。実に吉原を明るく描いている。

その点、講談は逆である。虚の持つダークな部分、陰惨で非業で残虐な部分にスポットを当てる。ノンフィクションとフィクションが合体した話芸だからこそだろう。今、松之丞を中心に講談に惹かれている女性ファンは、ファンタジーを求めていない。むしろ、その陰惨な部分にゾクゾク感、ドキドキ感を覚える。畔倉重四郎、村井長庵、徳川天一坊の連続読み物も、悪党が容赦なく自己中心的に殺人を繰り返すことが魅力なのだ。

「吉原百人斬り~お紺殺し」。松之丞は最近になって、演出を膨らませた。「お紺殺し」の後日談である、歌舞伎の人気演目「籠釣瓶花街酔醒」の部分を冒頭に描き、その上で時間を遡って、「お紺殺し」を読む。これが、実に効果的で、エンターテインメントとして極上の講談に仕上がった。

佐野の商人・佐野次郎兵衛は、吉原で知り合った美しい花魁、お紺を身請けし、女房に持つ。だが、廓でもらい受けた性病をお紺に移してしまう。お紺の顔は腐り、醜くなる。完治した次郎兵衛は、治らずに醜いままのお紺を見限り、逃げてしまう。その後、次郎兵衛の商売は成功し、後妻をもらい、息子も授かる。江戸からの帰り道、戸田の河原で女乞食と出会う。それは、何とお紺のなれの果て。すがりつくお紺を次郎兵衛は邪魔に思って騙し、川に突き落して殺してしまう。だが、宿に戻るとお紺の幽霊が現れ・・・、次郎兵衛は自分で自分の首を絞め、自害。その同時刻に佐野にいる息子の次郎太郎が囲炉裏に転んで火傷を負い、醜い顔になった。これが従来の「お紺殺し」だった。

その顔に火傷を負って醜い顔になった次郎太郎は、商売の後を継ぎ成功、名前も次郎左衛門と改める。そして、金がモノをいう吉原で、傾城八ツ橋と恋仲になる。300両払い身請けをして夫婦になる約束までしたが、八ツ橋は本気ではなかった。妹として身請けして、間夫の男と所帯を持たせてほしいわがままをいう。騙された!と知った次郎左衛門は、気が狂い、籠釣瓶という刀で花魁だけでなく、周囲の人間をバッタバッタと斬り殺す。これが「吉原百人斬り」、歌舞伎の「籠釣瓶花街酔醒」だ。

こちらを先に演じて、実は次郎左衛門の悲劇には因縁があるのだと、時間を遡って、父親・次郎兵衛の悪行を陰惨に描く。実にダイナミックでドラマチック。話がループする魅力。松之丞の話芸あっての素晴らしさであることは勿論だが、演出の工夫を怠らない彼の努力を見逃してはならない。

来年2月に6代目伯山を襲名して真打に昇進する松之丞。高みを目指す意気込みは衰えることがない。講談は古臭い、わかりにくい、というイメージを、独自の演出で払拭し、一般大衆が痺れるエンターテインメントに昇華している功績は大きい。真打昇進後も、ますますこの意気は変わらず、講談というものに対する世間一般の認識も激変すると思う。さらに期待を高める一席だった。