新宿講談会 田辺一邑「秋田蕗」一龍斎春水「萩原タケ伝」

新宿講談会昼の部に行きました。
「尼子十勇士 早川鮎之助」宝井小琴/「鼓ヶ滝」一龍斎貞橘/「秋田蕗」田辺一邑/中入り/「真柄のお秀」一龍斎貞奈/「万両婿」神田山緑
一邑先生の「秋田蕗」。秋田藩主佐竹公が松平安芸守からお国自慢を噓つき呼ばわりされた恥辱を討ち果たすため刃傷に及ぼうと考える短慮。困ってしまった家老たちを傍で見ていた小姓の名川采女の冷静沈着な判断と知恵が見事である。
藤堂和泉守に「秋田のハタハタは美味であるそうな」と佐竹公を持ち上げると、佐竹公はそれよりも自慢は秋田蕗、その葉は大人2、3人は雨宿りができる大きさであると得意げに話すまでは良かったが…。これを聞いていた松平安芸守が「大言壮語だ。そのような蕗があるわけではない」と腐したから、佐竹公はカッと頭に血がのぼり、一触即発、あわや刃傷沙汰になるところだった。
屋敷に戻った佐竹の殿様を落ち着かせ、采女は「国許から秋田蕗を取り寄せ、安芸守の前で示せば仇討になる」と進言。国入りの宴のときに「一献差し上げたい」と諸大名を招待する。接待役は采女が担当し、このときだけは中老格で名川丈左衛門と名乗る。そして、七五三御膳の後に「国許から取り寄せた格別なる一品」を出す。大名たちが食すと、「口の中でとろけ、少々ほろ苦いのが妙味で、誠に美味」と褒めそやす。佐竹公はニンマリ。そして、采女が「これが秋田蕗でございます。ご覧にいれましょう」と言って、障子を開けると、一面に大きな秋田蕗が並ぶ。一同は歓声をあげる。
ここぞとばかりに、采女は安芸守に対し、「実物をお目にして、真偽のほどが明らかになったと思います。主人の申したことは偽りでしょうか」。安芸守は非を認め、「主を思う忠義の心、あっぱれである」。そして、「余が間違っておった。首を討って、無念を晴らすが良い」。意趣返しができたのである。
だが、佐竹公はここで采女を責める。「お前は無礼だ」と言って、逆に佐竹公が家臣の采女の首を刎ねようとする。これを見た安芸守は「これはわしの不徳の致すところだ。詫びを入れる。わしに免じて赦してやってくれ。佐竹公は良き家来を持って幸せよのう」。
采女は安芸守から刀を賜っただけでなく、他の大名からも褒美をもらい、「忠勤に励め」と褒めそやされる。采女はこの功績が認められ、一時的につけた丈左衛門の名前をもらい、1000石の加増、中老となったという…。
だがその後、名川丈左衛門は側室実は悪党のお百と結託し、秋田騒動と呼ばれる御家乗っ取りを企む事件へと発展する…「妲妃のお百」という連続講談のスピンオフ的な読み物というのが面白い。
新宿講談会夜の部に行きました。
「細川茶碗屋敷」一龍斎貞奈/「一休禅師 御幣担ぎ」神田菫花/「萩原タケ伝(前)」一龍斎春水/中入り/「木津の勘助」神田春陽/「萩原タケ伝(後)」一龍斎春水
春水先生の「萩原タケ伝」。明治5年、五日市村に藁屋の娘として生まれたタケは五歳で小学校に入学、祖父が漢方医だった。貧しいことは恥ずかしいことでない、モノを知らないことが恥ずかしい、世の中の役に立つ仕事がしたい。学ぶことの面白さに目覚めたタケだったが、父が事業に失敗し、小学校を退学。夜学に通う。十二歳で小島医院の小間使いとして働きながら、「女学雑誌」で通信教育を受ける。そして、十八歳で産婆学校に入学。当時の医学を志す女性は皆、産婆学校に通うという時代だった。
だが、タケは東京で下宿生活をしていたが、平民であることから苛めを受け、挫折。一年で五日市に戻ろうと、汽車で八王子まで出て、人力車に乗った。そのときの車夫が偶然五日市出身で「タケのことを村の皆が期待している」ことを知らされ、タケは東京に引き返すことにした。
苛めに負けず、人の命に寄り添う看護師になろう。当時設立された日本赤十字社の養成所の寄宿舎に入る。ここなら宿代も三食の食事代も授業料も無料。必死で勉強し、明治26年に第7回生に合格する。だが、周囲は士族の娘ばかりで、平民出身のタケは苛められたという。しかし、学力、気働き、実技と優秀で、3年で卒業した。
明治三陸大津波が発生。31人の看護婦が派遣された。盛岡まで汽車で行き、あとは4日歩いて被災地に着いた。ライフラインが途絶えた中、5000人の被災者を40日間救護。それが認められ、タケは赤十字社に就職。北清事変の際には病院船を2隻用意し、タケは従軍看護婦長になる。しかし、どんなに働いても「平民だから」という理由でこれ以上は出世できなかった。なぜ差別されなくてはいけないのか。悩んだという。
しかし、チャンスが巡ってくる。フランス留学中の山内公爵の夫人、伏見宮様の随行員として、フランスに渡る。宮家の健康管理を任される中、各地の病院や看護学校を見学。宮様が帰国することになっても、「もう少し、フランスで勉強したい」と願い出て、それが認められ貿易商のハメル家に厄介になり、西洋医学を貪欲に学んだ。半年すると、今度は梨本宮のヨーロッパ外交に随行することになり、イタリア、スペイン、オーストリア、ドイツ…と廻り、イギリスへ。
日本赤十字社から「世界看護婦会議に出席せよ」という手紙が届き、タケは女性が議長を勤め、女性たちが活発に医療について意見交換する姿に感動した。看護婦=小間使いではないのだという思いを強くする。当時90歳だったナイチンゲールに面会を試みるも、叶わなかったが、病床のナイチンゲールからメッセージのメモをもらった。タケは帰国後、3年で看護婦総監督となる。
当時、シベリアには戦争孤児となったポーランド人が765人いた。このままでは餓死してしまう。アンナ・ビュルキェヴィッチが日本の外務省に救援を求めた。外務大臣の内田康哉は悩む。ポーランドとは国交を結んでいないのだ。国として支援はできない。民間団体なら…と考えたときに日本赤十字社が浮上した。石黒忠悳社長とタケは「戦災孤児を救えたら、どんなに素晴らしいか」と考えた。そして、石黒は陸軍に支援を訴えた。2週間後、ウラジオストックから日本へ、8回に分けて765人の子供たちを船で移送した。
衰弱した子供たちの衣服を熱湯消毒し、栄養のある食べ物を与え、規則正しい生活をさせて、徐々に体力は回復した。タケと一緒に子供たちを映した写真が新聞に載り、日本中から寄付金が集まった。765人の子供を二班に分け、東京と大阪でさらなる体力に回復を図る。三度の食事、勉強、運動、睡眠…次第に元気になった。
一人腸チフスを患っている子どもがいた。看護婦の松沢ふみが献身的な看護をした。容態は悪化し危篤に近かったが、「命に寄り添う看護」のお陰で回復した。だが、松沢が高熱を出し、倒れてしまった。感染症なのに、「つい、抱きしめてしまった」という。松沢は二十三歳の若さで亡くなった。この殉職はタケの心の傷となった。やがて、765人全員が横浜の港からポーランドに旅立った。「ありがとうございました」というカタコトの日本語を残して。
タケは第一回のフローレンス・ナイチンゲール記章に輝いた。世界で26人、日本からはタケを含め3人の名誉だった。以降、タケは3000人もの後輩を育てあげた。
75年後。阪神淡路大震災。孤児60数名がポーランドへ。あのときの御礼だったという…。日本の看護婦の礎を築いた萩原タケの歩みを丁寧に読む春水先生が印象的だった。

