講談協会定席 神田すみれ「名人長二 意外な生みの親との出会い」一龍斎貞心「東玉と伯圓」

上野広小路亭の講談協会定席初日に行きました。

「藤堂高虎 出世比べ」田辺一記/「越の海勇蔵」神田山緑/「猿飛佐助 生い立ち」玉田玉秀斎/「山内一豊 出世の馬揃え」宝井琴梅/中入り/「名医と名優」一龍斎貞友/「名人長二 意外な生みの親との出会い」神田すみれ

すみれ先生の「名人長二」。「箱清」と呼ばれた指物師、清兵衛に十歳で弟子入りした長二はみるみると腕を上げ、二十八歳で師匠を超えたと言われる。本所に弟弟子の兼松と住み独り者を貫く長二の唯一の楽しみは貧乏に施しをすることという人物だ。蔵前の坂倉屋助七から仏壇の発注をされ、見事に仕上げると、兼松が鑿で親指を傷つけて破傷風になったので、治療のために湯河原に湯治に行く。これは長二の背中にある親指ほどの大きさの傷穴に治癒も兼ねていた。

湯河原の宿の年老いた女中が長二の背中の傷を見て、「お前さんは捨て子だ」と言われる。29年前、この宿に泊まった夫婦が赤ん坊を押し付け合い、挙句に藪の中に捨てたのを長左衛門とおさよの夫婦が見つけた。竹が背中に刺さって血が止まらないのを医者に診せ、「助からない」と言われたが、この夫婦の手厚い看護で命を救った。つまり、長二が両親だと思っていた長左衛門とおさよは血の繋がっていない養父母だったのだ。

長二は江戸に戻り、墓参りを熱心にした。そして、天龍院で母おさよの十三回忌の法要をきちんと執り行った。その際に寺の住職が何か理由(わけ)があるのだろうと、長二に訊ねると、長二は仔細を話す。そこへ檀家の一人である亀甲屋幸兵衛がやって来て、本堂が立派になったこと、見事な経机があったことに触れると、住職は「それは皆、この長二さんの寄進だ」と答えた。そして、長二が貧乏人に施しをするのが道楽で、贅沢を好まないこと、実は捨て子だったこと等を幸兵衛に話す。

以来、幸兵衛は長二に仕事を依頼するようになり、多めに代金を払って、よくしてくれるようになる。ある日、幸兵衛が妻のおりゅうを連れて長二の家を訪ねた。おりゅうは長二をジッと見つめ、肩で息をして、紙入れから薬を取り出して飲んだ。持病の癪が出たと言って、早々に退散した。その際、おりゅうが忘れていった紙入れを柳島にある亀甲屋の寮に届けると、また手厚く料理を土産に持たせる優遇をする。

幸兵衛が書棚を作ってほしいと依頼した。採寸が済んで、談笑する中で、なぜ貧乏人に施しをするのかという話になった。長二は正直に話す。子どもの頃は貧乏だった。両親は田舎で百姓をしていたが、五歳のときに江戸へ出て、小間物屋を開業した。だが、大火事に遭い、また父親が早逝し、母親が女手ひとつで育ててくれた。その母親も十七歳のときに亡くなり、親孝行ができなかった。

産みの親より育ての親…話すと恥になりますが、実は私は湯河原の捨て子でして…あんな非道な親はいない。竹藪に捨てて、竹の切り口が背中に刺さり、血だらけでワーワーと泣いているところを長左衛門が救った。医者が「助からない」と言うのを両親が寝ないで看病して命を取り留めた。そして、立派な指物師になることができた。あっしの背中の傷を見てください。

これを聞いていたおりゅうが倒れ、苦しみはじめた。長二は「やっぱり、この人が産みの親」と確信した。後日、身元調べをすると、おりゅうは元は根岸の物持ちの女房だったが、亭主が病死して、金貸しをしていた。手代が幸兵衛で、亭主の生前から不義密通をしている関係だった。

幸兵衛・おりゅうが遊山の帰りに、長二の家を訪ねる。おりゅうは二十五両包みを二つ、熨斗を付けて渡す。長二が言う。「何ですか、これは。あなたは私のおっかさんですね!金なんて欲しくない。ただ、親子の名乗りをしてほしいだけだ。あとは出入りの職人のままでいい。本当のことを言ってください!」。

幸兵衛は「お前なんか、子どもじゃない!」と言い捨てて、去って行く。長二は五十両を持って追いかける。「本当のおっかさんでしょう?俺を産んだおっかさんだ」。幸兵衛は長二を打つ。「29年前に俺を捨てて、また捨てようというのか。こんな金はいらないんだ!ただ名乗ってほしかった」。金包みを投げつける。幸兵衛は長二の頭を踏みつけ、「役人に知らせるぞ」。

幸兵衛が短刀を取り出し、長二と揉み合う。そのうちに短刀が幸兵衛のみぞおちに刺さる。長二は短刀を振り回し、「俺を捨てるのか!もう、どうなってもいい!」。はずみで、おりゅうの胸に短刀が刺さる。息絶え絶えの幸兵衛が「お前は産みの母を殺したのか」。やがて、幸兵衛もおりゅうも絶命。

長二は「親殺し」の罪を被り、清兵衛親方と師弟の縁を切って、奉行に自首をしに出掛けた…。親殺しは死罪である。だがこの後、長二が無罪放免になるという波乱万丈の展開に。すみれ先生で続きが聴きたくなった。

上野広小路亭の講談協会定席二日目に行きました。

「大岡政談 三方一両損」一龍斎貞司/「中江藤樹とその母」一龍斎貞弥/「山葉寅楠オルガンを直す」田辺一邑/中入り/「大名花屋」神田あおい/「東玉と伯圓」一龍斎貞心

一邑先生の「山葉寅楠」。現在のヤマハ楽器創業物語を浜松出身の一邑先生が創作した傑作だ。尋常小学校に寄贈された舶来のオルガン、教員の初任給が5円の時代に45円するという高価なものだが、音が出ない故障の修理を依頼された山葉寅楠がオルガンの構造に興味を持ち、部品を全て分解して図面に起こしたところがすごい。「これなら3円から5円で作れるぞ」。

飾り職人の河合喜三郎と手を組み、試作品第1号を作ったが、「音が変だ」。寅楠は音楽の素地が全くなく、音階というものを知らなかった。そこで静岡師範学校、さらに東京上野にある東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽部)に試作品を持ち込み、伊沢修二校長に相談すると、「調律がまるでなっていない」。寅楠は音楽の授業を受けて音階を学び、試作品第2号を完成。外国製に負けないメイド・イン・ジャパンのオルガンが誕生した。

寅楠のすごいところは儲けようとしてオルガンを作ったのではなく、日本でも唱歌という科目ができて、各小学校でオルガンが必要になる。そのためには日本製の安価なオルガンを製作することが必須と伊沢を説いたところだ。クリエーターの心意気を感じる高座である。

あおい先生の「大名花屋」。花屋喜兵衛に飯炊き奉公していた伝助の心優しく、正直で勤勉、主人思いなところが気持ち良い。花屋は火事に遭い、家屋を焼失しただけでなく、一人娘のお花が火傷を負ってしまった。喜兵衛夫婦とお花の食い扶持を稼ぐために伝助は身を粉にして働き、病床のお花の看病も熱心にした。その甲斐あって、お花は全快。喜兵衛が「お花の婿に迎えたい」と乞い願うと…。伝助は実は松平右京太夫の次男坊の伝之丞であったことが明かされる。伝助は偉ぶることなく快く婿入りを承諾し、二代目花屋を継いで大層繁盛したという。伝助を魅力的な人物としてイキイキと描いているのが印象的な高座だった。

貞心先生の「東玉と伯圓」。神田伯海は上方に出て、評判の人気講釈師になったが、遊びの虫が疼いて、とりわけ博奕に手を出したのが悪く、芸が疎かになってしまった。そのときに、一緒に江戸から来ていた女房のお梅が「行く末に見込みがない」趣旨の去り状を残して姿をくらましたのは、心のどこかで「心を入れ替えて芸道に励んでほしい」という思いがあったからだろう。

以来、伯海は遊びをきっぱりとやめて精進し、芸が向上、贔屓客が戻った。もう一度、江戸で活躍したいと戻ったが、師匠の伯龍は他界し、弟弟子の伯山が神田派の束ねとして大看板になっていた。失意の伯海に偶然声を掛けたのは名人の桃林亭東玉。「源ちゃんじゃないか!…芸人は芸だよ。お前さんの芸は確かだと思っていた。スケてやるから高座に上がれ」と優しい言葉をくれた。

伯海は名を松林亭伯圓と改め、トリを勤める興行をスタートした。向かいの講釈場では伊東燕凌という人気者が看板を出していたが、東玉が助演ということもあって客足も悪くなかった。東玉は高座で「燕凌は魚に喩えると鯛。だが、伯圓は秋刀魚。ハシリです」と褒めた。その代わり、東玉は伯圓に対し、一日一両の出演料を要求した。東玉あっての客足、文句は言えない。

やがて、伯圓の高座が評判となり、興行は三か月続いた。もはや伯圓の看板で客は入る。ここで採った東玉の行動が粋である。「助演はもう休む」と伯圓に伝え、その上で「女房を持て」と言って、外に待たせている女性を楽屋に入れる。その女性こそ、大坂の伯圓の許を去ったお梅だ。お梅は伯圓に立ち直ってほしいと茶断ち、塩断ちをして祈っていたのだという。そして東玉はこれまでの出演料で貯めた百両を「お梅の持参金」と言って、伯圓に渡す。素晴らしい高座だった。