【英雄たちの選択】“怪談”を発見した男 小泉八雲

NHK―BSで「英雄たちの選択 “怪談”を発見した男 小泉八雲」を観ました。ラフカディオ・ハーン、のちの小泉八雲がいなければ、「ろくろ首」「雪女」「耳なし芳一」に代表されるような“怪談”が現代の私たちの暮らしの中で息づいていたろうか。八雲の功績の重要性について改めて考えさせられた。
1850年、ギリシャのレフカダ島で生まれた八雲は両親を早くに失い、大叔母に育てられた。だが、事故による左目失明、一家の破産による退学、そして極貧の生活を余儀なくされた。19歳で移民船でアメリカへ渡る。この大きな不安感、アイデンティティの欠落がその後の八雲に大きな影響を与えたという。すなわち、厳格なキリスト教信仰よりも古代の異郷の神々を崇拝、都会よりも田舎を好み、知識人や支配階級よりも庶民に寄り添う気持ちを持ち、それが創作の原動力になった。
1874年にニューオーリンズで新聞記者となり、社会から疎外された人たちを取材した。84年に開かれた万博の日本の出展に大変興味を示し、古事記の英訳を熱心に読んだ。そんなとき、雑誌社から日本への旅行記を書かないかと依頼され、1890年に訪日。だが、日本文化に強烈に惹かれた八雲は旅行記の執筆を断り、日本に移住する決断をする。島根県尋常中学の英語教師になった。日本家屋に住み、着物を着て、季節感溢れる暮らしをして過ごす。
1894年に「知られぬ日本の面影」を出版し、アメリカでベストセラーになった。そこに書かれた「杵の音」に関する記述が八雲の関心を表している。出雲大社は杵築大社といわれ、杵は古代の神道を象徴するものだった。八雲は神道、仏教、民間信仰が人々の生活の音と一体化していると感じ、神仏混交にもつながっていると専門家は分析している。
八雲は西洋が考えているような固定的な日本観を覆したいと思っていたのではないか。松江藩士の娘だった小泉セツは怪談やお伽話に精通していて、語り部として、八雲の文学のアシスタントとして重要な役割を果たし、結婚する。そのとき、ハーンが八雲を名乗ったのは、古事記にある「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」から採っている。
松江には1年3カ月いて、1891年に熊本へ移り、第五高等中学校に赴任した。だが、松江とは違って鉄道が開通し、九州初の電燈会社ができるなど、近代化、西洋化の波が押し寄せてきて、純朴とは対照にある熊本に嫌気がさしていた。1894年に日清戦争勃発、富国強兵のカラーの強い、日本の原風景が失われていく姿に八雲は落胆した。
神戸に引越し、英字新聞の新聞記者になる。このとき、セツとの間に長男が生まれ、正式にハーンは小泉家に養子に入り、日本に帰化。小泉八雲となった。このことは当時の西洋では考えられないことであり、そこにも反発心を見ることができる。日本人として日本の文化を語り継ぐ。日本の力になりたいという八雲の意志が感じられる。
1896年、八雲は東京帝国大学英文学講師に就任。再び、教育者としての道を歩む。だが、その6年後。東大文科大学長の井上哲次郎の名前で解雇通告が送られてきた。後任には留学帰りの夏目漱石を置くという。八雲は反発した。学生たちも「留任を」と反対運動を起こした。すると、大学長から解雇を翻す連絡が入る。八雲は苦悩した。自分を慕う学生のためにも留まるべきか。それとも、欧米至上主義の大学に抗うことは難しい。辞めて、文筆に専念するか。
52歳に八雲は後者を選択した。日本の文化を語り伝えていきたい。「KWAIDAN」を執筆、出版した。日本全国に語り継がれている話を収集し、自分の言葉にして、英語化し、世に出した。そこには妻セツの大いなる助けがあったという。八雲はセツから読み聞かせをしてもらう際、「あなたの言葉で」「あなたの考えで」「自分のモノにして」語ってもらうようにした。
「耳なし芳一」では、雄叫びの声、強者たちの踏み鳴らす足音、兜を打つ太刀の音、斬られた者が海に落ちていく音…細部を浮かび上がらせることにこだわった。それは「再び語る」「語り直す」、原話にはないような八雲の内面世界を投影させ、世紀末の感性を入れて未来へつないでいく、まさに「再話」という名の「創作」作業であった。それは文学の使命のひとつと言えるだろう。
「怪談」が出た半年後、八雲は54歳で逝去する。八雲が生前、夏に6回好んで訪れ滞在した地がある。静岡県焼津。魚屋の山口乙吉の家の二階で過ごした理由は「そこに日本の原風景があった」から。八雲はここで創作のインスピレーションを得て、思索を深め、作品を結実させた。
情緒を大切にする日本人の美意識。それが今、失われている。それを取り戻さなければいけない。小泉八雲のメッセージが聴こえてくるようである。

