ひつじ洞 春風亭昇羊「夢金」、そして貞鏡のネタおろしor虫干しの会 一龍斎貞鏡「左甚五郎 昇天の龍」

「ひつじ洞~春風亭昇羊毎月之落語会」に行きました。「看板のピン」「野ざらし」「夢金」の三席。

「野ざらし」。陽気な「色気違い」の八五郎が愉しい。コツを釣っているかーい!と釣り人たちに声を掛け、♬鐘がゴンと鳴りゃあ~とサイサイ節を口ずさみ、向島から年増のいい女がやって来る妄想…ハイテンションに演じて良かった。だが、針を捨てちゃうところまでしか演らず、尻切れトンボの印象。そう言えば、隣の先生から手向けの句を教わる部分もなかったし、酒も買って行かなかったから、ハナからそのつもりだったのか。勉強会なのだから、きちんと本来の幇間が訪ねてくるサゲまで演ってほしかった。残念だった。

「夢金」。“欲の熊造”が骨折り酒手を目当てに舟を出してやったのに、客の侍風の男にその気配がないので、わざと舟を激しく漕いで揺らす。さらに一緒にいる女は「妹」じゃないなと読んで、鷺を烏と言うたが無理か、場合じゃ亭主を兄と言う…と挑発しているところ、強欲ぶりがよく描けている。

ところが男が熊造の欲張りを見込んで、「花川戸で癪を起こして助けた」物持ちの娘の懐にある百両を奪うために「娘をばらしちまおう」という金儲けの相談をすると…。熊造は「俺は本寸法の欲張りで、人を殺してまで金は欲しくない」と言うところ、人間味があって良い。断れば斬られる。手伝えば金が入る。さあ、どうしよう。男が泳ぎを知らない弱みを利用して、男を中洲に置き去りにする熊造の作戦が成功するところ、痛快だ。「侍転じて、弔いだあ!」。

そして、一番良かったと思ったのはサゲだ。助けた娘さんの身柄をお店に届けて、御礼に五十両包みを二つ貰ったところで、「船宿の二階で自分の金を握っていた」。この噺の稽古をつけてもらったときは、「百両ぉー!」と熊造が寝言を言って、下の親方が「静かにしろ!」で終わる品の良い型だったそうだ。だが、昇羊さんは「僕の好み」で熊造が「金」を握っている本来のサゲに変えたという。「金を握っていた」と言いたかった、と。僕も同じ意見だ。最近は品がないからと言って、「金を握っていた」でサゲる演者をほとんど見なくなった。昇羊さんが本来のサゲを復活させてくれて、とても嬉しかった。だって、演目名が「夢金」だものね。

「貞鏡のネタおろしor虫干しの会~一龍斎貞鏡独演会」に行きました。「金色夜叉」と「左甚五郎 昇天の龍」の二席。前講は宝井優星さんで「山内一豊 出世の馬揃え」だった。

「金色夜叉」。間貫一は早くに両親を亡くし、孤児同然のところを呉服商の鴫沢隆三に貰われ、第一高等学校に進むことができた。隆三の一人娘、宮とは親も許す間柄、許婚となる。それが正月のかるた会に現れた富山銀行の御曹司、富山唯継が宮の美貌に一目惚れしたことで運命が変わっていく。

唯継は鴫沢隆三に一通の手紙を出す。それは三千円の支度金を出すので、宮を嫁に貰いたいという内容だった。父親の隆三は宮に唯継との結婚を勧め、母親も「女の幸せは好きになった人と一緒になることではなく、好きになってくれた人と一緒になることだ。甲斐性がある男の人と夫婦になりなさい」と説得する。宮は貫一のこともあり迷うが、両親の強い勧めに根負けして、富山家へ嫁ぐことを承諾する。良心の呵責を覚えながら…。

宮は母親と連れ立って、気晴らしに熱海へ梅見に出掛ける。一方、貫一は隆三に呼び出され、「宮をよそへ嫁に出すことを許してくれ」と頼まれる。財産は譲る、留学もさせる。だから、宮は諦めてくれ。相手は「富山銀行のあのキザな息子だな」と察しがついた。胸は張り裂け、涙が溢れた。「これはおじさんが仕組んだ狂言ではないか」。未練が残る。

貫一は熱海へ。梅林で宮に会い、階段を昇る。一月十七日。空には月が輝いている。「嘘だろう?夢だと言っておくれ…来年、再来年、十年後、生涯を通じて僕はこの日を忘れない。空に輝く月も僕の涙で曇らせてみせる。お前の心変わりで貫一が泣いていると思ってくれ」。そう言って、貫一は姿をくらませ、自暴自棄となり、やがて高利貸しとなる…。金に恨みにあるがゆえ、貫一は金にまみれた商売に手を出すのか。この続きが聴きたくなった。

「昇天の龍」。三代将軍家光は東叡山寛永寺の鐘楼堂を建立するにあたり、東西南北の四つの柱に四人の名工が彫った昇り龍を施したいと考えた。全国から選ばれた難波の吉兵衛、佐野の伝兵衛、神田の源太郎の三人はすぐに決まったが、あと一人が決まらない。松平伊豆守は御意見番の大久保彦左衛門にお伺いをたてると、浅草黒船町の甚五郎が適任であろうと推挙した。

甚五郎は嬉しかったが、今までに龍を彫ったことがなく、戸惑った。手本になるものを探したが、良いものが見つからない。上野不忍池の弁天堂に三七二十一日の願掛けをする。満願当日になってもヒントは得られず、ガッカリして不忍池の石橋を渡ろうとすると、年頃十三、四の女性が水面をぼんやりと眺めている。身投げなどしなければいいが…と見ていると、天から「昇り龍を今、見せくれん」という声が聞こえ、雨がポツリと降り出すと、雨風激しくなり、黒雲が水面近くに降りてきて、池から大きな龍が姿を現した。

これだ!と甚五郎が思ったところで、ハッと目が覚め、賽銭箱の前で眠っていた自分に気が付く。甚五郎は弁天様に「ありがとうございます」と礼を言い、彫物を始め、八日かけて昇り龍を彫り上げた。だが、三人の名工たちに比べると、大久保彦左衛門にも、松平伊豆守にも、「頭が大きすぎて、髭が太く、不細工」に見えた。

だが、これを実際の鐘楼堂の柱に掲げると…他の三人の彫物は繊細だが、蛇がのたくっているようにしか見えない。それに比べ、甚五郎のそれは真に迫るものがあった。家光がこれを見て、「甚五郎は名人であるな」と言ったという。

寛永寺の僧侶が鐘を撞きにいくと、九ツのときに不忍池から聞き慣れぬ音がする。それは大きな龍が水を呑む音だった。それを見た住職が鐘楼堂に行くと、柱の龍がぐっしょりと濡れていたという。甚五郎の彫った龍が命を宿し、池に水を呑みに行ったのだ。このようなことが毎日続くと困る。甚五郎に「龍の足止め」を依頼すると、甚五郎は龍の額に楔を打ち付け、以来池の水を呑みに行くことはなくなった。この噂は江戸中に広がり、寛永寺の昇り龍を見物する人で絶えなかったという。しかし、明治時代の大火で焼失してしまったそうだ。左甚五郎の名人伝として大変興味深かった。