【熱談プレイバック】葦毛の怪物・オグリキャップ

NHK総合テレビで「熱談プレイバック 葦毛の怪物・オグリキャップ」を観ました。貴重なアーカイブ映像と講談師・神田阿久鯉先生の講談のコラボレーション、今回取り上げたのは地方競馬出身ながら日本の競馬ブームを作ったと言ってもいいオグリキャップの物語だ。

岐阜の笠松競馬でデビューしたオグリキャップは500万円という安値で取り引きされた馬だったという。問題は毛の色。「葦毛の馬は速く走れない」という定説があり、また足腰も弱かったことが原因だ。だが、800メートルのデビュー戦では出遅れしたものの、その後地面スレスレをいくチーターのような走りで追い上げ、最終コーナーを2番手につけ、1着のマーチトウショウにクビ差の2着でゴールした。

以来、「葦毛の怪物」「笠松の誇り」と称され、人気は鰻昇り。12戦10勝を挙げる実力は噂となって広がり、「売って欲しい」という声が馬主のところに沢山飛び込んだ。地方競馬の馬主はJRA(日本中央競馬会)の資格は持っておらず、中央競馬に参戦することはできない。馬主は断り続けたが、競馬ファンの声を無視できず、1988年1月にオグリキャップは大きな期待を背負って中央競馬会に移籍した。

オグリキャップの厩務員を勤めたのは、池江敏郎、当時52歳。馬にとっては、いわば相棒である。オグリキャップの食欲、澄んだ目、気の強さ、頭の良さを見抜いた池江は「お前とならGⅠ制覇という夢を叶えられるかもしれない」と思ったという。

1988年3月6日、デビュー戦はペガサスステークス(GⅢ)。2着のラガーブラックに三馬身差をつける圧勝だった。その後も6連勝。ファンは熱狂した。そして迎えた秋の天皇賞。“白い稲妻”と呼ばれたタマモクロスに敗れ、2着。その次のジャパンカップにもタマモクロスに次ぐ2着。「打倒タマモクロス」を掲げ、有馬記念を目指して中山競馬場で調教を重ねた。

そして12月25日の有馬記念。オグリキャップはタマモクロスに半馬身差をつけて、優勝。池江との二人三脚で名実ともに日本一に輝いたのだった。

オグリキャップの活躍は社会現象にもなり、空前の競馬ブームを巻き起こした。1990年6月。池江はオグリキャップの右後脚の関節に僅かな腫れを見つける。医師の診断は右飛節軟腫。温泉療養、超音波治療などを重ねた。10月の秋の天皇賞は2か月半ぶりの復帰戦だったが、6着と惨敗。続くジャパンカップでも11着。6歳馬ということもあり、オグリキャップは燃え尽きた、復活は無理と囁かれた。

ついに引退を発表。12月の有馬記念が最後のレースとなる。池江はオグリキャップに「俺たちらしい走りを見せよう」と言い聞かせた。騎手は21歳の武豊が勤めることが決まった。気力を取り戻すために、走り込みを続けた。

そして迎えた12月23日。12万7千人を超える大観衆を前に、最後のレースが始まる。単勝では4番人気だった。池江は「最後まで諦めない走りを見せてくれ」、武は「お前はオグリキャップなんだからな」と言った。オグリキャップは最後の力を振り絞って駆け抜けた。最終コーナーで先頭に立つと、最後まで先頭を譲らずにゴールを決めて、1着。有終の美を飾った。

観衆は熱気に溢れ、オグリコールが鳴りやまない。そのうち、ユタカコールになり、最後はイケエコールに変わった。ウイニングランをしながら、池江は「もう走らなくていいんだ。夢を見られて最高だ」とオグリキャップの首を叩いて言ったという。

通算32戦22勝。獲得賞金は9億円を記録した。記録に、そして記憶に残る名馬として、オグリキャップは競馬の歴史に名を残したのだ。