【熱談プレイバック】稀代の冒険家・植村直己

NHK総合テレビで「熱談プレイバック 稀代の冒険家・植村直己」を観ました。貴重なアーカイブ映像と講談師・神田阿久鯉先生の講談のコラボレーション、今回取り上げたのは五大陸最高峰制覇という世界初の偉業を成し遂げた植村直己だ。
1960年に明治大学に入学した植村は山岳部に入部する。だが、新人合宿では40キロの荷物を背負い雪山を歩かされ、自然を楽しむ余裕などなく、ふらふらでよく転んでばかりいた。ついた渾名が“ドングリ”。負けず嫌いの植村は毎朝9キロの山道を走り込み、一年の100日以上を登山し、北アルプス単独行をテントなしで5日間でおこなった。「一人なら何でもできる」。植村は自信をつけた。
山岳部のリーダーだった小林正尚がアラスカを登頂したことに刺激され、植村は世界の山に挑戦することを志す。そのための資金を貯めるため、カルフォルニアのブドウ農園で一日10時間働いた。しかし、不法移民の取り締まりが入り、観光ビザしか持っていない植村は留置所へ入れられてしまう。調査官には「英語が判らない」の一点張りを貫くと、日系人男性が通訳に入った。植村はここぞとばかりに「世界の山を登る」という夢を熱く語り、調査官に情熱が伝わり、日本送還は免れたという。
そして、ヨーロッパのモンブラン、アフリカのキリマンジャロ、南米のアコンカグアと三大陸の最高峰を制覇する。次は北米のマッキンリーを目指すも、資金に苦しむ。航空運賃はない。そこでアマゾン川を源流から河口までの6000キロを筏で下る計画を立てる。縦4メートル、横2.5メートルの筏を作り、アナ・マリア号と名付けた。ペルーで知り合った修道女の名前から採ったのだ。植村が恋した彼女から「心で支えてあげる。困ったときは私の名前を思い出してください」と言われたのだった。
アマゾン川下りは壮絶だった。大雨突風に襲われ、八万奈落の底に落ちるようだった。だが、転覆はしなかった。また、丸太船に乗った盗賊に遭遇するも、勇気を振り絞って立ち向かうと、その気迫に慄いて盗賊は逃げていったという。こうして、60日間でアマゾン川の河口に辿り着く。1970年、エベレストとマッキンリーの登頂に成功し、世界初の五大陸最高峰制覇を果たした。
植村は次なる冒険として世界初の北極点単独行を目指した。1972年。寒さに慣れるため、グリーンランドに行き、犬ゾリの操縦を会得する。グリーンランド3000キロ走破。さらにアラスカまで、北極圏12000キロを走破した。あとは物資の確保である。莫大な費用がかかるため、募金をしたが、この「気ままな計画」を応援してくれることに重圧を感じたという。
そこに、日本大学北極遠征隊が北極点を目指すという情報が入る。植村は世界初の単独行であり、日大はあくまで日本初のチームによる挑戦。しかし、マスコミは植村VS日大と煽った。
1978年、植村がグリーンランドに犬を調達に行くと、優秀な犬は日大に取られ、訓練されていない犬での挑戦を余儀なくされた。3月5日にカナダをスタートするも、乱氷帯に悩まされる。マイナス40度の中、氷を砕いて道を作りながら進むが、一日2キロしか進めない。北極点までは800キロある。果てしない挑戦だった。
ある朝、目覚めるとホッキョクグマが食糧を漁る音に気づく。死を覚悟した。日本にいる最愛の妻公子のことを思いながら、ジッと堪えた。「助けてくれ」。間もなくして、ホッキョクグマは去って行った。
3週間もすると、氷原が目の前に現れた。快調に犬ゾリを走らせる。だが、ソリが走った跡を発見した。日大のチームが北極点に到達したというニュースが入ってきた。植村は悔しくて仕方がなかった。だが、思う。「冒険は勝ち負けではない。全力を尽くし、自分を乗り越えることが冒険だ」。4月29日、北極点到達、世界初の単独行での快挙だった。
1984年、植村はマッキンリーで消息を絶った。その後、「植村直己冒険賞」が設立され、多くの冒険者たちの励みになっているという。稀代の冒険家、植村直己の切り拓いた道のすごさを思う。


