新宿講談会 田辺凌鶴「鼠小僧次郎吉 分銅伊勢屋」、そして寛永三馬術SP 一龍斎貞弥「松浦潟の血煙」

新宿講談会昼の部に行きました。
「無剣鍾馗」宝井小琴/「古事記 八岐大蛇退治」田辺銀冶/「亀甲縞大売出し」一龍斎貞心/中入り/「夫婦餅」一龍斎貞司/「鼠小僧次郎吉 分銅伊勢屋」田辺凌鶴
貞心先生の「亀甲縞」。藤堂高敏の家臣、杉立治兵衛は武士でありながら、商才があったということであろう。特産の綿が不作で経済が危急となったとき、松坂木綿に倣って織物として売り出すことを考え、反物の製法を研究し、三十万反を織りあげ、これに「亀甲縞」という名前を付ける。また、これを売り出すために、二代目團十郎人気に目を付け、今でいうコマーシャルをしてもらうという発想は当時としては画期的なことだったのだろう。
大坂の袴屋久右衛門のところに売りに行くと、一反十二匁五分と踏んでいたのに、番頭に「七匁五分」と買い叩かれそうになってしまう。そのときに言われた台詞、「品が良くても値が上がるものではない。モノの値段というのは買い手がつけば上がり、買い手がつかなければ下がる」。このことをよく学習した治兵衛は、ここで挫けずに次の一手を熟考した。
それが團十郎人気を利用した成田屋ブランド商法だ。大坂で芝居初日を前にした團十郎に事情を話し、亀甲縞売り出しに一役買うことを約束してもらった。芝居の幕が開くと、客席の芸妓連中は揃いの亀甲縞の着物で総見。さらに團十郎が芝居の中で亀甲縞の着物に早替りする場面を作り、芝居台詞で大いにPRをした。これを観た町人たちはこぞって亀甲縞を求めて、袴屋に押し寄せる…。
慌てた久右衛門は杉立に泣きつき、五万反を一反十二匁五分で買い取りたいと言うが、立場が逆転した杉立は「一反十八匁五分」と値を上げた。それでも羽が生えたように売れる。さらに袴屋が五反買いたいというと、「一反二十四匁五分」。教わったモノの値段の決まり方を逆手にとったところが痛快だ。灸が効いたと見た杉立は残り二十万反は「一反二十五匁」で譲ることにして、三十万反全てを売り切った。知恵者の杉立は後に三千五百石の家老にまで出世したという…。大好きな読み物である。
凌鶴先生の「分銅伊勢屋」。鼠小僧次郎吉は大名屋敷だけで仕事をし、決して町人からは盗みを働かないことを信条としていた。それが市ヶ谷の木村文助という旗本屋敷で博奕に負け、百両の借金を拵えると、帰りに寄ったおでんやで「江戸で一番の金持ちは分銅伊勢屋だ」と駕籠かきが噂をしているのを聞いて、盗みに入ろうとした。
だが、次郎吉がそこで見たものは…。旦那の四郎兵衛と女将のおみき、それに番頭の新兵衛しかいないガランとした部屋だった。聞けば、大名に貸した金が返済されず、奥州の金山に手を出したが当てが外れ、親戚からも見放されて、莫大な借財の返済のために屋敷と土地を明け渡し、夫婦は伊勢に行く旅支度をしているところだった。
この店の身代を持ち直してあげたいと考えた次郎吉は、どれくらい金があればいいのかと訊く。すべて綺麗にしようと思ったら、何千両とかかるが、急場しのぎにまず三百両あれば、あとは腕次第で立て直すと四郎兵衛は言う。これを聞いた次郎吉は「明け方までに用意しましょう」と言って、去って行った。
四郎兵衛たちは「どうせ戻ってこないだろう」と酒を飲んで寝ようとしたが、明け方近くになって、次郎吉が戻ってきた。「お約束の三百両です。これで身代を持ち直し、めでたい春を迎えてください」。四郎兵衛は「なぜこんなにお慈悲深い方が盗人などをしているのか、改心してください」と言う。すると、次郎吉は「ご意見、身に染みる。だが、堅気には戻れない。十六のときに悪の道に入り、金は全部世間に預けてあるようなものだ」と言う。
「鼠小僧次郎吉がお仕置き場で処刑されるときは、それを命日として、線香の一本でも手向けてください。悪党が涙を見せるようじゃいけない」。酒を呷って誤魔化す。四郎兵衛が次郎吉の片袖がないことに気づく。「盗みのときに引きちぎられたんです。忍び込んだ屋敷はどこかって?それは召し捕られたときに洗いざらい話します」。四郎兵衛から倅の衣類を渡された次郎吉は礼を言って去って行く…。義賊と言われた次郎吉の人間的な部分を垣間見た読み物だった。
新宿講談会夜の部「新春 寛永三馬術スペシャル」に行きました。
「愛宕山 梅花の誉」田辺いちか/「度々平住み込み」神田春陽×宝井琴凌/中入り/「松浦潟の血煙」一龍斎貞弥/「三名人芸くらべ」宝井琴調
貞弥先生の「松浦潟の血煙」。三名人の一人、筑紫市兵衛の物語だ。肥前唐津藩で150石取りの武士だった。唐津藩主・寺沢志摩守広高の嫡男、堅高が薩摩藩の島津家久の娘・桃園姫を妻に迎え、酒宴が催された。薩摩藩の宍戸宇源太が酒に酔って、「薩摩が横綱なら、寺沢は褌担ぎ。腰巾着大名、ヒョロヒョロ大名だ」と悪口雑言を吐く。唐津藩の武士たちはいきり立ち、「一刀の下に斬り捨てたい」と思うが、市兵衛がこれを止め、堪えるように言う。酒宴も途中で中止し、薩摩藩の客人には早々にお休みくだされと寝間に案内する。
市兵衛は三十九歳。妻を持たず、母親と二人で暮している。市兵衛は「明日こそは宇源太を懲らしめたい」と夜通し考えていた。そして、翌朝。唐津を去る船に乗ろうとする薩摩藩一行…そこに市兵衛が現れ、「しばらく、お待ちくだされ」。市兵衛が宇源太に問う。「昨夜の悪口は御本心か、それとも酔った上での戯言か」。宇源太はプライドもあり、「酒の上」とは言わないで、「本心だ」。「主君を罵るとは失礼だ!」と言う市兵衛に対し、「十二万石ごとき大名の家来に言われたくない!無礼者!」と言って宇源太は槍を向ける。だが、それを撥ね退け、市兵衛は「天に代わって成敗する!」と宇源太を斬り捨ててしまった。
恐れをなした薩摩藩一行は「宇源太がよろしくない。きちんと主君に伝えます」と言って、唐津を去った。このことを聞いた志摩守は市兵衛の言動を問題視した。自分への忠臣よりも薩摩から苦情が来ることを恐れたのだ。「市兵衛に縄を打て」。そこに現れたのは、家老の塚本織部。「人の命を奪うは許しがたきことである。しかしながら、許される場合が三つある。一つは国のため。二つ目は主君のため。そして、三つ目は己の身に禍があるとき」。そう言って、「殿は良き家来を持ちました。武運益々盛んになることでしょう。この功に対し、どのようなご褒美をされますか。ご加増されますか。忠義を尽くした者に対し、縄を打つとはもってのほか」。
志摩守はそれでも折れない。「織部、手討ちにするぞ。逆らうのか。暇を申し付ける」「いかなる罪で?」「家風に合わぬ」。すると、織部は「市兵衛は真の武士の道を貫く所存だ。皆はどう思うか」と、周囲の家来たちに問う。家来たちは家老に賛同し、全員が手を挙げる。
志摩守は縄を打つことを思いとどまる。長の暇を出し、薩摩には「出奔した」と報告するという。市兵衛は「格別の慈悲」と感謝し、浪人となって母親と二人で諸国を経巡ることになる。三年後。宇都宮城下に引き取られ、奥平忠正公に馬術指南役として800石取りとして召し抱えられる。
「寛永三馬術」というと、曲垣平九郎、それに度々平こと向井蔵人ばかりが読まれることが多いが、よく調べてみると筑紫市兵衛にまつわる読み物の割合が実は多いのだ。もっと市兵衛の読み物を聴きたい。そう思った夜だった。


