講談協会初席 宝井琴調「浜野矩随」神田織音「横川勘平」一龍斎貞寿「沢村淀五郎」宝井琴桜「茶碗屋敷由来」

深川の講談協会初席初日昼の部に行きました。
「大久保彦左衛門 筍騒動」宝井小琴/「團十郎と武助馬」一龍斎貞鏡/富くじ抽せん/「井伊直人」宝井琴鶴/「浜野矩随」宝井琴調/中入り/余興/「坂本龍馬伝 海援隊の船出」田ノ中星之助/「赤穂義士銘々伝 横川勘平」神田織音/「桜田門外の変 雪の日本橋川」一龍斎貞花
琴調先生の「浜野矩随」。若狭屋に「飴や菓子を並べて商売でもしろ」と言われてしまった矩随が、母にこの話をすると、母は「私のために観音様を彫っておくれ。お前の父さんはこの掛け軸に描かれていた観音様をよく拝んでいた」という…。矩随も三日、この観音様を拝み、彫物を始めた…。
出来上がった観音様を見て、母は「若狭屋へ持って行き、値を付けてもらえ。二十両にならなかったら、一緒に飴菓子を売ろう」。自信のなり矩随は父矩安の墓の前で喉をノミで突いて死のうか…と迷うが、日も暮れてきたので若狭屋へ。若狭屋は「いくらになるか言ってみろ」と言う。矩随は「二十両…」と答えると、「もうお前はこの店の敷居を跨ぐな。この観音様は少なく見積もっても四十~五十両はする。お前は見る眼がない。矩安さんのものがまだあったか…今、江戸でこれだけのものを彫れる人は誰もいない」と言う。
実は矩随が彫ったということが判り、急いで自宅に戻ると母親は九寸五分で喉に突き立てようとしていた寸前だった。一人前どころか、若狭屋が江戸随一と太鼓判を押す彫物師になったという…。人間、何がきっかけで大成するか、わからない。
織音先生の「横川勘平」。勘平は早くに両親を亡くし、伯父の芹沢助右衛門の夫婦に育てられた。だから、助右衛門は芹沢家の養子に迎えたかった。だが、勘平は赤穂藩が改易になっても仇討本懐のために、他家に仕官することは拒みたい。大石内蔵助に相談したところ、「放蕩三昧をして愛想尽かしされよ」。勘平は酒を飲めないが、無理やりに味醂を一合飲んで酔っ払い、伯父を訪ね、「酒の美味さがわかった」と言って、酒浸りを演じたが…。結果は伯父が「良き酒の相手ができた」と喜ぶという結果に。
ならば、吉原通いに狂ったことにしようと、堀部安兵衛に指南を受けて、吉原を見聞し、「三日ほど居続けした」ように演じることにする。だが、堅物の勘平は実際には廓遊びは拒む。さも「陽気に騒いだ」かのように演じるために、安兵衛から教わったことを白扇に書き込み、伯父に話す。山口巴という茶屋から玉屋山三郎に上がり、相方は小桜だった、幇間を三人、芸者を二組四人、馴染み金は五両払った…と教わった通りに話すが…。
ところが伯父は小桜を知っていて、「左の目尻にほくろがあったろう」と訊くし、馴染み金は五両ではなく十両は払うべきだったと助言するし、遣手のおばさんにはどれくらい祝儀を切ったかと問われて、勘平は「十両」ととんでもない額を言ってしまう…。勘平の芝居をすっかり見透かされてしまうが、伯父も大笑いしながらも「跡目を継ぐのが嫌なのだろう」と察しがついた。
だが、それが赤穂義士として討ち入りするためだということまでは判らなかったという。伯父夫婦のお陰で、勘平は仇討において立派な働きが出来たという、義士伝としては滑稽の部類に入る珍しい読み物を聴くことができた。
深川の講談協会初席二日目昼の部に行きました。
「源平盛衰記 扇の的」一龍斎貞奈/「杜子春」神田菫花/富くじ抽せん/「家斉公と三河島菜」田辺一乃/「鉢の木 源左衛門鎌倉駆け付け」一龍斎春水/中入り/余興/「沢村淀五郎」一龍斎貞寿/「寛永三馬術 出世の石段」一龍斎貞橘/「茶碗屋敷由来」宝井琴桜
貞寿先生の「淀五郎」。市村座の仮名手本忠臣蔵四段目、三日目も團蔵の由良之助は花道から動かず、淀五郎の判官に近寄らなかった。淀五郎が團蔵の楽屋へ行き、訊ねる。「気に入らないのはわかっています。拙いところがあったら、教えていただきたい」。これに対する答えは手厳しい。「それは良いところがある一人前の役者が言う台詞だ。判官様になっちゃいない。忠義心からすぐにでも駆け付けたいのに、傍に近寄れない。それは待っているのが役者の淀五郎だからだ」。
どのように腹を切れば良いのかという問いに、「本当に腹を切って死んでしまえ。大根役者は死んだ方がましだ」。意地悪で言っているのではない。仲蔵によれば、急遽空いた判官の役に相中の淀五郎を名題にして代演させようと推したのは團蔵なのである。「三河屋さんが見込みがある、できるに違いないと思ったからこそ厳しくしているのだろう」。團蔵の愛情なのだということが伝わるのが良い。
仲蔵が淀五郎の演技を見てしたアドバイスが的確である。「拙い。てんでなっていない。そこにいるのは役者の淀五郎だ」と團蔵と同じことを言った後、「役の性根がわかってなくちゃいけない。自分が、自分がと己ばかり前に出しては駄目だ」。
判官という五万三千石の大名の品格を大事にしろという。九寸五分を腹に突き立てるとき、左手が崩れている。淀五郎は「苦しみを表現した」と言うが、そうではいけない。胸を張っていろ。そして、寒中冷水を浴びせられたような思いで台詞を言いなさい。これだけのアドバイスで淀五郎の演技は一変した。名優は名演出家でもあるのだと思う。
琴桜先生の「茶碗屋敷由来」。屑屋太兵衛から500文で買い取った阿弥陀仏を布で手入れしていたら連座のにかわが剥がれ、小粒五十両が出て驚いた細川越中守家来・田中卯兵衛。元の持ち主である元松平安芸守家来で浪人の河村惣左衛門が病で寝込んでいると聞いて、屑屋と一緒に五十両を返却に行く。だが、河村氏は「一旦売り払ったもの」と拒み、田中氏も「中の金子までは求めていない」と受け取らない。頑固同士の意地の張り合いになってしまったときの大家の仲裁が的確である。
これはいささか河村氏が良くない。素直に金子五十両を受け取って、御礼の印に何かを渡すというのが人の道である、と。河村、田中二十両ずつ、屑屋十両というような折衷案を出すことはしないし、ましてや「花は桜木、人は武士」などと賞賛することもない。大家の判断が正解だと思う。
河村氏が田中氏に御礼として渡した古びた茶碗は、茶人の吉田久庵が「青井戸の茶碗といって、三百両はくだらない」と言い出しても、再び二人の間の諍いが再燃するようなことなどなく、寧ろ二人の間に生まれた友情の美しさを讃えているのが講談としてはとても良いと思った。
だからこそ、このことを田中卯兵衛は主君である細川越中守に「河村氏は元は800石取りの清廉潔白な武士であったのに、心ない讒言によって浪人となってしまった」と報告し、越中守から安芸守に話がいって、河村惣左衛門が元の身分に戻れたという…素敵な美談に仕上がっていて好きである。


