あの人に会いたい 追悼2025(上)

NHK総合テレビで「あの人に会いたい 追悼2025」を観ました。

長嶋茂雄 6月3日 89歳没

お別れの会で松井秀喜が「自分の師は長嶋茂雄だったと言える幸せをありがとうございました」と言ったのがとても印象的だ。長嶋茂雄は日本プロ野球の象徴のような存在だったのだと思う。そのミスタープロ野球のすごさを3つの視点から紹介していた。

一つ目は勝負強さだ。1959年6月25日の初の天覧試合、巨人―阪神戦で9回裏にサヨナラホームランを打って試合を決めた。長嶋はこう振り返る。「まさに空の気持ちでね、真っ白い心の中で、勝負のときは全部捨てきる。バットマンである以上は、ああいう場面でやっぱり打ちたい、喝采を受けたいという気持ちはあって当然だと思う」。

二つ目はファンへの熱い思いだ。三振しても全身全霊をこめてのスウィングで豪快にヘルメットを飛ばす。「悪い状態の中でも何か、ピカッとね、少しでも光る輝きがあってもいいんじゃないか」。送球フォームは歌舞伎の所作を参考にしたという。ファンに喜んでもらってこそのプロ野球という信念を貫き通した。「きょうのお客さんのターゲットはどの方にしようかな、見られていることに無限の喜びを感じる。最高のいい場面で最大の力を発揮することがファンの皆さんに還元できる。そういう使命感が作られていく」。

三つ目はたゆまぬ努力だ。天才的といわれるが、その実像は練習の虫だった。王貞治が「残ってノックを受けた回数も長嶋さんが一番多かった。長嶋さんがやっているから、やらなくちゃいけないというところがあった」。練習は一人でするものと考え、努力する姿をファンに見せないのも、長嶋流だった。

2004年、脳梗塞で倒れる。だが、リハビリする姿をあえて公開した。同じ病で苦しんでいる人たちを勇気づけたいと考えたからだ。全力で駆け抜けた野球人生。「黄色い声援、𠮟咤激励をいただきながら、プレーに集中できる。やっている者の喜びの中で最大の状態、それも長い間ずっときているから、非常に幸せな野球人生だった」。

釜本邦茂 8月10日 81歳没

大柄な体から繰り出される強烈なシュート、日本サッカー界の最高のストライカーである。「シュートを打つときにハンターにならなきゃ駄目だ。ドーンと打つ。一撃で倒さなければならない。冷徹冷酷な気持ちにならないと、点にはならない」。日本代表男子歴代最多の75得点(国際Aマッチ)。「ゴールの右45度からシュートを打つ。10回打ったら、9本は枠の中にいく自信があった」。

17歳で才能が開花し、日本代表選手として西ドイツのデットマール・クラマーからキックやヘディングの基本を教わった。最年少で日本代表選手となったが、シュートの技術において世界との差を知らされる。「お前はボールを受けて前を向くまで3秒かかる。ヨーロッパでは2秒だ。ブラジル、南米では1秒で前を向いている。この差だ」と言われたという。

1964年の東京オリンピック、準々決勝でチェコスロバキアに0-4で敗退する。大会で釜本は僅か1得点しかできなかった。「自分の力は世界のレベルでは三流だと思った。4年後にオリンピックがある。同じやるなら、釜本は一級品と言われたい」。釜本はドイツに留学し、シュートの技術を磨く。「他の人より自分が勝らなかったら何の取り柄もない。他の人には負けたくない。それが私の個性であり、特徴であると自分自身がわかっていた」。

1968年、メキシコオリンピックの3位決定戦。釜本は前半18分、39分と2ゴールを挙げた。そして、2-0でメキシコに勝った。釜本は大会で7ゴール、得点王に輝いた。

誰よりもシュートにこだわり、生涯で548得点を記録した。「自分の仕事は点を入れること」。釜本は選手引退後も「平均点の選手ではなく、スペシャリストを育てたい」と情熱を燃やした。「チームは図抜けた力を持っている人を使わなければ損だ。自分勝手にプレーするのではなく、その嚙み合わせをうまくすれば、チームプレーはうまくいく」。鍛え抜かれた右足で世界とわたりあった生涯であった。

仲代達矢 11月8日 92歳没

仲代の信念は「人間を描かないとつまらない。人間とはわからないから、人間追求を役者という商売でやっている」。8歳で父を亡くし、母を養いながら定時制高校を卒業。学歴なしで食べていくために、俳優という道を選んだ。19歳で俳優座養成所に入所。だが、内気で人見知りな性格のため、電車の中で詩を朗読するなど、人前に出ることに怖気ない訓練を重ねたという。

1954年の映画「七人の侍」で通行人の役をもらった。だが、黒澤明監督から「まともに歩く演技もできないのか」と怒鳴られ、何十回も歩いた。僅か3秒の出演だったという。「役者にとって歩き方がいかに大事かを知った」。1980年の映画「影武者」で、黒澤監督は仲代を主役に抜擢する。カンヌ映画祭パルムドール受賞。縁というのは大切だと思う。

1975年に妻の宮崎恭子と無名塾を立ち上げる。「役者は生涯修業」という仲代の信念の下、役所広司などの役者が育っていった。「己の敵は己。己と闘え」という教えも仲代らしい。

合宿などで縁のあった石川県七尾市に能登演劇堂ができたとき、仲代は84歳だったが、「肝っ玉おっ母と子供たち」という3時間におよぶ舞台を勤めた。「いくら疲れていても一生懸命。いくつになっても倒れるまで」。演じることは生きることと考えた仲代は92歳までこの能登の舞台に立ち続けたという。まさに全身全霊を捧げた役者人生だったと言えるだろう。