あの人に会いたい 追悼2025(下)

NHK総合テレビで「あの人に会いたい 追悼2025」を観ました。
いしだあゆみ 8月11日 76歳没
♬ブルーライトヨコハマは150万枚のヒットとなり、紅白歌合戦には10回出場したいしだだが、女優としてのイメージの方が強い。純と螢の母親役を演じた倉本聰脚本のドラマ「北の国から」を齧りつくように観た記憶は僕の青春の1ページだ。
1977年の土曜ドラマ「最後の自画像」を皮切りに、20代後半から女優活動に重点を置いた。様々な役になりきる面白さに目覚め、女優としてやっていきたいと思うようになった。「歌手は私本人、でも芝居は私じゃないから、すごく正直になれる。一枚ベールをかぶると何でもできちゃう」。
1979年の向田邦子脚本のドラマ「阿修羅のごとく」では、浮気をしている父親を見つけてしまった四人姉妹の中で生真面目な三女滝子を好演した。和田勉演出のこのドラマもよく覚えている。「セリフの少ない作品は緊張する。行間の余白の部分を埋めるのは私。そこの方がセリフより意味があったりするから面白い」。また、「自分で気が付かない私がすごく出ている。テレビのレンズはすごく怖い。肉眼より映像の方がちゃんと映るっていう感じがする。嘘の世界をやっているけれど、嘘の中でものすごく本当があるときがある」とも。
1986年の映画「火宅の人」では、自由奔放な夫に翻弄されながらも子どもと力強く生きる女を演じ、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞している。「女くさい女になりたい。味わいのある女優になりたい。こんな女になりたいとう理想が自分の中にある。それがずっと消えないでいるから、死ぬまでそれを追い続けていると思う」。
篠田正浩 3月25日 94歳没
14歳のとき、終戦を迎えた篠田は価値観が一変したという。「祖国防衛のため、天皇陛下の神聖を守るために死ななきゃいけないと教わった皇国少年。それが8月15日を境に天皇陛下自らが私は人間であると。自分が生きていく信条、信仰、宗教とか、そういうものが全部カスになった」。
日本はなぜ戦争に走ったのか。それを探す中で手掛けたのが1983年の映画「瀬戸内少年野球団」。阿久悠の自伝的小説の映画化だ。「阿久さんは戦後をとても楽観的に楽しい活力にあふれた時間として捉えた。僕にはそのひとつひとつがとても悲しく涙がにじみそうな光景だった。阿久さんは『どうぞ、その悲劇的なものと喜劇的なものが共存する映画で結構です』と言ってくれた」。そして、戦後の活気を取り戻す少年たちと戦争の影を引きずる大人たちの対比として、この映画を描いた。
「勝者はいつもにこやかで自慢話ができる。敗者はいつも苦い水を飲まされている。この苦い水を飲んでいる人の方が歴史の本質、真実をじかに体験している。勝者は有頂天になって見逃してしまっている。人間として奢ってしまう。そのときは自分を見失ってしまう」。
2003年の「スパイ・ゾルゲ」は、昭和初期に軍国主義に傾倒していく日本を外国人スパイの目を通して描いた。「ゾルゲは異邦人だから、おまけにスパイだから、ものすごく客観的に昭和を眺められる。日本人を日本人だけの視点で見ていると、大きな過ちを犯す。日本は外からどう見られるか。それを虚心に受け止めないと日本は自分の姿が見えなくなってしまう」。
エンディング曲にジョン・レノンの♬イマジンを使った。国境のない、戦争のない世界を求めて。「絶望することは容易い。イマジンして希望を持つことはもっと困難だけど、人間はそれに向かって生きていく。後退は許されない。歴史に逆回することはできない。前に向かって新しい歴史を刻むしかない」。今の日本はそれができているだろうか。
千玄室 8月14日 102歳没
茶の湯を通じて平和の実現を目指した茶道裏千家15代家元の原点は特攻隊員を見送った体験にある。「生きて帰って今日まで戦友たちの分まで忸怩たる思いをしながら生きている。私の命のある限り、私は世の中が本当に楽しく皆が幸せに暮らせるように一盌のお茶を役に立たせたい」。
二十歳で学徒出陣、海軍に入隊した。「命があれば15代を継げるんだと。駄目だった場合は弟が継いでくれる。その覚悟で出ました」。戦場で茶を立て、仲間に振舞った。「生きて帰れないんだと。その途端にね。なんか胸が詰まってきたことだけは覚えている。おかあさーん!と叫んだ」。自分は出撃せず、終戦を迎えた。
「自分だけが生き残った。アメリカの顔を見るのも嫌だった。本当は軍刀でギャーッといこうか思うくらいの気持ちだった。文化の力だ。お茶の力をもってすれば日本という国はもっともっと理解されるだろうと思った」。千利休の和敬清寂の精神。敬い合い、清らかな気持ちで一服のお茶のよって落ち着いた安全な気持ちを保つ。「安らぎを与える。みんな同じ人間なんだ。人間たちは皆一緒に仲良く同化させること。利休は茶の道によって教えたんです」。
1951年、27歳で渡米し、サンフランシスコで茶会を開く。「アメリカは伝統や文化がない。よその国の伝統、歴史の在り方というものを我々は知らないといけないとアメリカ人は考えていた。この前進、前向きな姿勢が自分にも必要だなと思った」。
1964年、15代家元として千宗室を襲名する。「一盌からピースフルネスを」を訴え、世界各国を歴訪し、「空飛ぶ家元」と呼ばれた。国連本部でお茶を立て、アナン事務総長が、そして北朝鮮と韓国が一緒に座ってお茶を飲んだ。茶道の大きな平和外交だったといえよう。
「この茶碗は丸いです。地球なんです。アースの中に、グリーンがいっぱいある。『どうぞ』『お先に』『いかがですか』。勧め合う心。そういう気持ちが世界中にあったら、戦争は起こりません」。「茶道はあらゆる宗教を超越した一つの道。あらゆる芸術を包含したもの。人様に対する大きな情けの気持ちを養う。二度と戦争など起こしちゃいけない。起こさせようとする人たちを止めなきゃいけない。これが私たちの使命ではなかろうか」。この言葉を重く受け止めたいものだ。

