兼好・貞寿二人会 一龍斎貞寿「雪女」、そして国本武春没後十年追善公演 国本はる乃「紺屋高尾」

兼好・貞寿二人会に行きました。三遊亭兼好師匠が「近日息子」と「寝床」、一龍斎貞寿先生が「雪女」と「真柄のお秀」、開口一番は笑福亭羽太郎さんで「動物園」だった。

兼好師匠の「寝床」。旦那の義太夫が聞きたくない長屋の衆およびお店の奉公人たちの言い訳を並べ、「で、お前はどうなんだ?」と訊かれた繁蔵が思わず言った「因果と丈夫」。旦那が怒り出すと繫蔵は開き直り、「私が一手に引き受けます。田舎に残した年老いた母には『息子さんは最後まで敵に背中を見せなかった』と言ってやってください」と言うのが可笑しい。

旦那が切り札の長屋店立て、奉公人解雇のカードを出すと、長屋の衆の態度も一変。金物屋は「節回しを素人だが、情けの深さは玄人はだし」と持ち上げ、豆腐屋は「気になってがんもどきを三角に作っちゃう」と言って出てくる。提灯屋は「職人を二人雇って」駆け付け、番頭は「芸惜しみをするんですか」と詰め寄る。旦那も折れて、「皆さん、好きだねえ」。

「旦那は普段は良寛さんと呼ばれる人柄なのに、義太夫になると信長になる」という表現が面白い。斎藤さんの息子は横須賀に用があって出掛けていたが、下駄の鼻緒が切れたり、黒猫が前を通り過ぎたり、不吉な予感がして戻ったら、年老いた母が杖をついて夕日に向かって「何も言わずに行かせておくれ」と息子を振り切ったという。この母子のやりとりが義太夫になっていて、「こっちの方が泣かせる」と長屋の衆が言うのが可笑しかった。

貞寿先生の「雪女」。木こりの茂作爺さんと巳之吉は吹雪に遭って家に戻れず、船頭小屋で一晩を過ごしたが…。美しい女が茂作に馬乗りになり、口から息を吹きかけると氷に包まれてしまった。巳之吉のことも取り殺すと言っていたが、独り残された母親に「先立つ不孝をお許しください」と心の中で祈ると、その女は親を思う気持ちに免じて見逃してくれた。「決してこのことは誰にも言ってはいけないよ」。

朝になり、船頭に揺り動かされた巳之吉は命拾いをしたことに気づく。だが、茂作爺さんは凍え死んでいた。巳之吉は昨夜何があったかについては約束を守り、誰にも話さなかった。

一年後、巳之吉は仕事を終えて帰る途中に、足を挫いた女性を見つける。それは美しい娘で、「二親に死に別れ、戻る家もない」と言うので、巳之吉は自分の家に連れて帰った。娘の名はおゆき。働き者で、母も気に入り、やがて巳之吉の女房になった。そして、10人の子宝に恵まれた。

それから何十年も過ぎ、巳之吉も年老いた。だが、おゆきは少女のままである。不思議だ。巳之吉は十八歳のときに体験した船頭小屋の話をおゆきにする。「あれはもののけ、雪女だったかもしれない」。すると、おゆきは「その女は私です…」と言って、巳之吉に馬乗りになり、「なぜ話したのです。取り殺すと言ったはず」と責め、巳之吉を取り殺そうとする。

そのとき、「寒いよ」という子どもの泣く声がした。おゆきは水晶のような涙を流し、「お前を取り殺せば、あの子たちも死んでしまう。お前の代わりに私が消える。子どもたちを大事に育てよ。何かあったら、必ず取り殺すぞ」。そう言って、おゆきは雪の中、姿を消した。「なぜ話した。ずっと傍に居たかったのに…」。だが、おゆきは再び姿を現すことはなかったという…。小泉八雲の不思議な世界を巧みに描いた高座だった。

国本武春没後十年追善公演に行きました。

「水戸黄門漫遊記 散財競争」富士琴哉・沢村道世/「若き日の大浦兼武」玉川太福・玉川みね子/「紺屋高尾」国本はる乃・沢村道世/中入り/「赤垣源蔵 徳利の別れ」玉川奈々福・沢村美舟/鼎談 奈々福・太福・はる乃

僕は武春先生と一度だけお仕事をした思い出がある。2010年にウイルス性脳炎で入院されたが、5ヶ月で復帰した直後くらいだったと思う。2011年3月11日に東日本大震災が発生、多くの被害者が出た。僕は当時、NHKラジオセンターの午後の時間帯の「つながるラジオ」の制作を担当していて、被災地の避難所でラジオを聴いている子供たちが喜ぶ放送ができないかと特集を企画した。

そのときにゲストでスタジオにお呼びしたのが謎かけのねづっちさんと国本武春先生だった。武春先生はEテレの「にほんごであそぼ」という番組で“うなりやベベン”というキャラクターで出演されていて、正確に言うと、うなりやベベンとして出演いただいたのだった。

事前の打ち合わせ段階で、武春堂の清水さんも交えて、できるだけ無理な負担にならないよう配慮した企画をやろうということになった。武春先生には「にほんごであそぼ」でも人気のある日本語の名フレーズを三味線を弾き語りで披露していただくことを中心に構成したのだが、ねづっちさんと一緒に謎かけにも挑戦するというサービスも即興でやってくださり、大変好評だった。

武春先生の中で、「被災地の子どもたちを元気にしたい」という熱い気持ちを強く持っていらっしゃることがジンジンと伝わってきて、とても優しい方だなあと感激したのを覚えている。

そして、2015年12月14日にイイノホールで開催予定の「忠臣蔵でござる」のチケットを僕は買っていたのだが、そのリハーサル中に倒れ、24日に55歳という若さで亡くなったことは余りにも衝撃だった。武春先生の代演で奈々福先生が出演し、「俵星玄蕃」をうなったことは今でも忘れない。

鼎談で奈々福、太福、はる乃の三名が異口同音に言っていたのは、武春先生は天才だったということだ。特に国本を継承するはる乃さんは「手の届かない存在」で、音源が沢山あるけれど「とても真似ることが難しい」と話していた。太福先生も武春先生から「これ、俺の20代前半のときの音だから」と言って渡されたが、聴いてみると、その浪曲はすでに出来上がっていて、これは敵わないと感じたという。

鼎談の中で、沢村豊子師匠が曲師を勤めた「英国密航」の最後の部分の音声が5分ほど流れたが、陳腐な言い方になるが「すごい!」の一言だった。今、これだけの浪曲をできる国本武春がいたら、浪曲界の風景も違って見えたろう。また、「徹子の部屋」に何回か出演していて、その映像がYouTubeで見られるそうだが、黒柳さんのいくつもの無茶振りに天才的に浪曲で返していく様子は、さながら「デッドボールになる球をホームランにしてしまう」と太福先生は表現していたが、そこからも武春先生の天才ぶりが窺い知れよう。

はる乃さんの「紺屋高尾」。久蔵が高尾太夫に「お裏はいつ頃ざます」と訊かれ、正直に「三年経ったら来ます。あっしは上総のお大尽の跡取り息子なんかじゃない。神田御玉ヶ池の紺屋六兵衛の職人です。十五両なんて金はそう簡単にできるもんじゃない」と答えた後の高尾太夫が良い。

遊女は客に惚れたと言い、客は来もせず、また来ると言い。嘘と嘘との色里で、恥も構わず身分までよう打ち明けてくれました。金のある人大嫌い、この正直を捨ておくことができようか。女冥利に尽きます。あちきもやっぱり人の子、義理という字は墨で書く、あなたの心の正直に惚れました。二度と再びこの里に足を踏み入れないでおくれ。

後日の証拠に香箱の蓋と三十両を渡された久蔵は「夢なら醒めずにいてほしい」と思う気持ちがよく伝わってきた。