神田すみれ一門会 神田あおい「渋沢栄一と青い目の人形」、そして忠臣蔵でござる 柳家喬太郎「俵星玄蕃」

神田すみれ一門会に行きました。
「レ・ミゼラブル ファンティーンの物語」神田山兎/「寛永宮本武蔵伝 吉岡治太夫」神田蓮陽/「三村の薪割り」神田山緑/「渋沢栄一と青い目の人形」神田あおい/中入り/「名医と名優」田辺いちか/「細川の茶碗屋敷」神田こなぎ
あおい先生の「青い目の人形」。時代が江戸から明治に変わると、日本人の多くがアメリカに渡り、移民となった。だが、「安い賃金でよく働く」日本人は嫌われ、文化の違いもあり、反日感情が沸く。アメリカ政府は1907年に日本人移民を制限する日米紳士条約を結ぶ。
アメリカ人牧師のシドニー・ギューリックは渋沢栄一と面会する。京都の同志社で国際親善を進めようとしていたが、日米紳士条約を苦々しく思い、もっとお互いの文化を理解しあうようにならなければいけない、その橋渡しに一役買ってくれないかと渋沢に協力を求めにきたのだ。
6年後にギューリックは帰国する。1924年に排日移民法が制定され、益々彼の危惧は大きくなった。アメリカ全土の学校を巡回しながら、アメリカと日本の間に「高い壁」ができてしまったことを痛感した。民間レベルで何かを講じなければいけない。そこで考え付いたのが、青い目の人形を作って、日本に贈ろうというアイデアだ。
アメリカの子どもたちに日本の文化を知ってもらう活動の傍ら、「お小遣いの中から少しだけでいいから」と寄付を募り、1万2千体の青い目の人形をリボンや手紙を添えて日本の桃の節句に贈る。人形は渋沢に託された。受け入れた日本青年館は全国各地の学校や施設にこの人形を配布した。手紙には「メアリーです。日本の皆と仲良くなりたいです」等と書かれていた。
このことは各地の新聞が取り上げ、記事にした。渋沢はその記事を目にして、「ギューリックは偉い」と感心した。書生が「こんなことで移民問題は解決するのでしょうか」と疑問を投げかけると、渋沢は「報いを求めてはいけない」と叱った。
渋沢は行動に出る。浅草橋の吉徳に出向き、社長の山田徳兵衛と会う。青い目の人形は「友情人形」だ。その御礼をしたい。「答礼人形」を作ってほしい。日本古来の市松人形。抱きしめられる大きさにこだわった。アメリカの文化を尊重し、日本の桃の節句に贈られてきたお返しはクリスマスの時期に贈りたいと製造を依頼し、寄付金を募った。渋沢のポケットマネーから出すことも出来たが、それでは心がこもっていない。結果、58体の市松人形がギューリックの許に贈られた。
渋沢は91歳で逝去。1941年に真珠湾攻撃が始まり、日米関係は悪化するばかりだった。青い目の人形は「敵国の人形」「恐ろしい偽の親善使」よばわりされ、廃棄されるところも少なくなかった。だが、この人形を守ろうと隠し持っていた大人もいた。それが戦後になって見つかり、「平和の証し」と賞賛されたという。太平洋戦争を経て、日米親善の象徴として再び光を浴びた青い目の人形のことを、天国の渋沢栄一は目を細めて喜んでいるだろう。素敵なあおい先生の新作講談だ。
「喬太郎・太福 忠臣蔵でござる」に行きました。柳家喬太郎師匠が「俵星玄蕃」、玉川太福先生が「タラバガニ玄蕃」。開口一番は玉川わ太さんで「遠山金四郎の刺青を彫った男」だった。
喬太郎師匠の「俵星玄蕃」。講談本から掘り起こし、六代目宝井馬琴先生の承諾を得て、演じはじめたそうだ。僕は2009年に三鷹市芸術文化センター星のホールの独演会で聴いて以来、16年ぶりである。
本所辺りを夜鷹そば屋に身をやつして吉良邸を偵察していた杉野十平次と宝蔵院流槍術指南の道場を開いている俵星玄蕃の心の交流が良い。蕎麦に入れる玉子焼きや蒲鉾が厚く、これで商売になるのか。また杉野が座っている姿、竹刀胼胝(たこ)、面擦(めんずれ)、眼の配り。元は武家であろうと尾州浪人の玄蕃は察する。だが、杉野は備前岡山の百姓、十右衛門の次男で十助だと身分を隠す。
玄蕃は「何か大望があるのだろう」と再三再四訊くが、杉野は「大望といったら店を一軒持ちたいくらいで。買い被り過ぎです。妙に勘繰りなさいませぬよう」とあくまで身分を隠す。玄蕃は「自分が浪人して、槍術の道場主で終わることに忸怩たる思いがあり、大望を持つ自分と重ね合わせてしまう」と非礼を詫びるところなど、素晴らしい。
数日後。玄蕃は「上杉家に100石で召し抱えが決まった。それに加え、用心棒代として20石が加増され、120石になる」と杉野に知らせる。吉良邸が本所松坂町、玄蕃の道場が本所横網町と近所であるゆえの用心棒だ。だが、この話は気が進まないと打ち明ける。浅野内匠頭刃傷の件は幕府片手落ち、内匠頭が庭先で切腹させられたのに対し、吉良はお咎めなし、喧嘩両成敗ではないか、と。忠義が見たい。槍の穂先を赤穂の浪士に向けたくない。この苦しみ、わかるか。わしはどうすればいいのだ。
これに対し、杉野は冷静だ。「赤穂浪士は討ち入りしないと思います。京都に逗留していたのですが、山科の大石様は悪い噂ばかりで評判が良くない。浪士をまとめる者がいなければ仇討はできないでしょう」。玄蕃を120石で召し抱える上杉家は宝の持ち腐れであり、無駄だとまで言う。玄蕃は酒に酔っていたこともあり、杉野に「無駄」と言われたことに腹を立て、塩を撒いて追い払った。
ある日、俵星玄蕃の道場に武家が訪ねてくる。松平加賀守の家来で木村十内と名乗る男が「殿が玄蕃殿を200石取りで召し抱えたい」と言っているという。「この話は年明けに…」と言って、去った。これを喜んだ玄蕃は早速、杉野に報告する。「蕎麦屋!喜んでくれ」「おめでとうございます」「お前にこの話を聞いてもらいたかったのだ」。玄蕃は杉野をまるで十年、二十年の友人のように思っているところが良い。
元禄十五年極月十四日。山鹿流の陣太鼓の音がする。玄蕃は「吉良邸、討ち入りだ」と判り、槍を抱えて本所松坂町へ。大石内蔵助が迎える。「俵星玄蕃殿でござるな」「助太刀をいたしたい」「その思いはありがたく頂戴します。ただ、仇討は家臣のみで成し遂げます。どうか、槍は収めてください」。
杉野が玄蕃に「先生!」と声を掛けると、玄蕃は「蕎麦屋か!やはり、わしが見抜いていた通りだったか。武士たる者は命を惜しむな。惜しむべきは、その名じゃ」。そして、「松平加賀守家来」も実は原惣右衛門だった…。「人に騙され、このように嬉しかったことはない。大願成就、念じております。いずれわしも…蕎麦を作って待っていてくれ」「あの世で蕎麦を打って待っております」。
素敵な赤穂義士外伝に胸が熱くなった。

